幻想と予想

石橋湛山

 

「いや、われわれの科学は幻想ではない。むしろ幻想とは、科学が与えることのできないものが、どこかほかのところで手にはいるかのように、信じこむことをいうのであろう」。

ジークムント・フロイト『幻想の未来』

 

 トーマス・マンは、『魔の山』において、「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない」と言っているが、日本人はすでに「軽蔑」を通り超した政治状況に置かれている。そこで政治家について書くことは、ある意味で、困難である。政治家に関する作品は、超歴史的な存在として描くのでなければ、彼らの政策が、自分自身方向性を持っていても、ブレーンが考案しているケースが少なくないため、当時の歴史的・社会的状況と人間関係をおりまぜながら、実施した政策、ないしは用意していた原案などを解説する回想録や伝記になってしまう。「権力の座にある狂人たちは、天の声を聞き、何年か前の三流学者からその狂気を引き出しているのだ」(J・M・ケインズ)。一方、独自の哲学を所持しているマルクス主義系の政治家は、日本においては、その理論をダイナミックに経験的事象や出来事と対応させることがあまりないので、彼らをめぐる叙述は政治思想書の範疇におさまってしまうのである。むろん、政治家に関する記述は凡庸で退屈どころか、ジェファーソン、リンカーン、レーニン、トロツキー、孫文、毛沢東、周恩来、ガンジー、ネルー、チトー、アタチュルク、スカルノ、ホー・チ・ミン、アジェンデ、カストロ、ゲバラ、ドプチェク、ナジ、ナセル、アラファト、エンクルマ、ニエレレ、マンデラなどは素晴らしい作品が著わされているように、魅力的作業である。われわれの知的好奇心をそそる政治家とは、具体的な政治活動と理論の両面において、大いなる仕事をしたものであり、政治家を書くことの意義はこの二つの要素が織り成すダイナミズムにほかならない。こうしたダイナミズムを可能にする条件は、その対象がほとんどの場合、独立や革命の担い手であるように、第一には、彼らの個人的能力や品格、志向ではなく、歴史的・社会的に激しい変化の時期である。時代の混乱が政治家と理論家という安定期には固定されている識別を錯綜させ、それがある個人を通して具現されるのだ。つまり、政治家を書く困難とは激動期を把握することの難しさを意味しているのである。そして、「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」(ベルトルト・ブレヒト『ガリレオ・ガリレイの生涯』)ということを忘れてはならないのだ。Angalia!

 We’ll be fighting in the streets

With our children at our feet

And the morals that we worshipped

Will be gone

And the men who spurred us on

Will sit in judgment of all wrong

They decide and the shotgun sings the song.

I’ll tip my hat to the new constitution

Smile and grin at the change all around

Pick up my guitar and play

Just like yesterday

Then I’ll get on my knees and pray

We don’t get fooled again.

The change it had to come

We knew it all along

We were liberated from the poor, that’s all

And the world looks just the same

And history ain’t changed

‘Cause the manners, they were born

In the last war.

I’ll move myself and my family aside

If we happen to be left up alive

I’ll get all my papers and smile at the sky

For I know that they hypnotized every life.

They’ll be jumping in the streets

They take it differently to me

And the tokens are a phase, by the by

And the parting on the left

Is now parting on the right

And the fears of past no longer rule the night.

Don’t get fooled again, no, no

Meet the new boss

Same as the old boss.

(The Who “WON’T GET FOOLED AGAIN”)

 近年、石橋湛山に関する著作や論文が数多く発表され、湛山再評価の波が高まっている。最も影響を受けた、あるいは最も尊敬する政治家として彼の名をあげる政治関係者も少なくない。石橋湛山は戦後になって一般的に広く知られるようになったが、その後、六十年代ごろから、長らく忘れられた存在になっていた。この間、湛山についての理解の厚みが増したとは言いがたい。それどころか、今日の湛山をめぐる言説は、むしろ、反湛山的でさえある。性格俳優のウッディー・アレンを喜ばせる程度の演技力を有権者の前で披露してくれる日本の政治関係者と違って、しばしば自分は「理屈」で生きている人間だと断っている湛山は、『山公国葬反対』において、「人を取らずして、その言を取る。正しき言に対しては叩頭する、これが吾輩の主義であり、これが吾輩の常に世に行われんことを祈願する処のものである」、と言っている。しかし、それは「その場限りの大言壮語諛辞讃詞」や「無用の粉飾」(『敢えて婆心を抜瀝し新内閣に望む』)を行われた言葉ではない。湛山の文体はセンテンスが短く、簡潔で、力強く、反美学的で、比喩が少なく、経済的である。今日の政治家やジャーナリストの文章や演説、インタビューは大袈裟で不明確な言葉にあふれている。ほとんどそれはアジテーションである。They are bunkum.

 アドルフ・ヒトラーは、『わが闘争』において、アジテーションが有効であるには思考力は邪魔だと次のように述べている。

 大衆が集まるとき思考力は締め出されるものである。私にはかかる状態が必要であったがゆえに、つまりそれによって私の弁舌の効果が最大となるがゆえに、私はいつも人々を集めたのである。そこで彼らは好むと好まざるとにかかわらず大衆と化し、インテリも市民も労働者もいなくなった。このように私は民衆を作りあげ、大衆としてこれに話しかけたのである。

 大衆集会を開くことの最も重要な効果は、小さな人間がそれぞれ大きな怪物の一部となっているのだという誇り高い確信を抱くに至ることである。

 今の政治家やジャーナリストはアジテーションを飛ばしたがり、「いつも人々を集め」、「思考力」を締め出し、「大衆としてこれに話しかけ」ることばかりしている。プロパガンダの寸劇を演じた後で、マス・ゲームのフィルムを延々と流している前で、ヒステリックなアジテーションを叫ぶ(代議士を持つある宗教団体に属する)女性に、「小さな人間がそれぞれ大きな怪物の一部となっているのだという誇り高い確信を抱くに至る」ことはファシズムだと指摘してフラられたことがあるわれわれには、確かに、そう思えてならないのである、チンプンカンプンな言葉にはチチンプイプイと魔法で消してしまいたいところだが、夢見ることのない彼らにはなかなかきかない。日本は無責任の体系と呼ばれるが、その秘密は主体性の不在にはないのだ。権力の源は、星室庁が示しているように、非公開性にある。マルクス兄弟の『いんちき商会』や『けだもの組合』の場面が日常茶飯事な日本では、広い領域で非公開だから責任がなくなるのだ。われわれには公正取引委員会が彼らの言葉を誇大広告として調査に入らないのが不思議なくらいである。もしかすると、委員会はそれはたんなる落書きだから、地方自治体の清掃局の管轄だと考えているかもしれない。われわれは、この言説の環境問題を解決するために、こうしたゴミをただ捨てるのではなく、やはりリサイクルをする必要があるだろう。つまり、われわれは石橋湛山をめぐる「幻想」を批判し、彼の「予想」を読解しなければならない。Te de thwa ba.

 湛山は、国会議員だったジョン・スチュアート・ミルやデヴィッド・リカードなどの経済学者たちと同様、具体的な政治活動に参加した。だが、湛山はたんなる一議員などではなく、吉田茂内閣で大蔵大臣、鳩山一郎内閣では通産大臣、そして、短期間ではあったが、戦後七人目の日本国内閣総理大臣まで務めたのである。湛山は吉田茂や鳩山一郎、石井光次郎、河野一郎、三木武吉、大野伴睦、芦田均、西尾末広、岸信介、池田勇人、佐藤栄作などといった、今の線の細い議員たちとは違う、一筋縄ではいかない個性派の政治家たちとわたりあったのだ。文学や哲学にかかわる知識人の多くは、戦前、湛山を知らなかった。彼らにとって、湛山はこうした地位を歴任した政治家である。湛山が記者として文学や哲学に関する評論を書いていたことを、それどころか『東洋経済新報』の主幹として経済や政治、時事問題について、例外なく、高い水準を持った論文を書きまくっていたことを彼らは知らなかった。湛山の『大日本主義の幻想』や『百年戦争の予想』の前では、「近代の超克」は色あせて見える。彼の意見を彼らが知っていたならば、全集が刊行されて初めてそれを目にした竹内好が驚き、脱帽しているように、当時の知識人の議論はかなり変わっていたことだろう。「困難を解決するためには、管理する側もされる側も、ともに第三者を必要とする。この第三者は公の立場につかず官僚的にもならずに政治的であって、それと同時に、私的な利害に直接かかわりをもたぬ市民を代表する者でなければならない。問題の解決にあたるこの第三者とは、政治的な精神と市民の心からなる自由な新聞である」(カール・マルクス)。Ini pantas.

 こうした湛山の出発点は、進学した早稲田大学において、田中王堂のプラグマティズムと出会ったことである。正確に言うならば、湛山はもともとプラグマティスト的資質を持っていたが、田中王堂の哲学に接したため、それがより強調されたのだ。湛山について考察する際、プラグマティズムを考慮することは重要である。日本では、プラグマティズムはほとんどまともに受容されたことはなかった。大正時代に、期待して来日したジョン・デューイは東京帝大で『哲学の改造』という講演を行ったが、まったく理解されず、失望して日本を去っている。プラグマティズムは、その命名の由来から見ても、転倒したドイツ観念論である。

 ウィリアム・ジェイムスは、『プラグマティズム』において、プラグマティズムを次のように説明している。

 プラグマティックな方法なるものは、何ら特殊な結果なのではなく、定位の態度であるのにすぎない。すなわち、最初のもの原理、『範疇』、仮想的必然性から顔を背けて最後のもの結実帰結事実に向かおうとする態度なのである

 デューイの歴史的遡行の方法は真理性=客観性の前提そのものを疑うことにある。デューイはそれによってポジティヴな何ものかを提示するのではなく、反論理学こそが彼の論理学であるように、既存の言説に対する批判を企てているのだ。それはパースの「科学」を受け継いだものである。パースの言う「科学」はいわゆる自然科学に限定されず、一切のものを含んでいる。彼の考えでは、「科学」は客観的だから真理なのではなく、明晰な方法的手続きを経た知的活動だけが真理なのである。真理性を保証するのは、固定したものではなく、その動きつつある手続きそのものなのだ。それは「進化論」に基づいたすべてのものは動き続け、とどまることはないという理論である。ほとんどの日本人はこのような経験論的な思考を理解できない。日本の哲学はドイツの、文学はフランスの影響を強く受けたため、商業的思考をとるアングロ・サクソン系の哲学・文学は少数派である。日本で哲学を研究することはドイツ的な用語と思考方法を身につけることなのだ。アメリカ哲学を専攻することは、それだけで、反中央集権的姿勢をとらざるを得ない。大学院でプラグマティズムを研究していたわれわれは、アメリカ哲学に対する日本の哲学研究者の扱いの冷淡さと、認識の甘さに呆れかえった。日本においてプラグマティズムが最も影響力を持っている領域は、デューイが提唱した理論が合衆国で「進歩主義教育」−−デューイ自身はこの運動には否定的たった−−として実施された教育学である。デューイは、プラトンやルソーと並んで、教育学の教科書には必ず登場してくる三大巨頭てあるが、逆に、そのため、デューイのほかの分野に関する著作は読まれることが少なくなっているから、プラグマティズムをめぐる読みはラディカルからほど遠い事態が起きているのだ。アメリカは訴訟大国と呼ばれているし、イギリスでは、成文憲法がなく、これまでの法律と判例の累積と編み変えが法体系として機能している。経験論はこうした経験に対する事後的姿勢であって、経験の再現ではない。湛山は自発的行動をとったことがなかった。大学で哲学を学んだのは僧侶になるためだったし、僧侶になろうとしたのは父親が僧侶だったからである。湛山がジャーナリストになったのは、彼が早稲田大学を卒業したからである。当時、慶応を例外に、私立大学の卒業者には官界や財界、教育界などには門戸が閉ざされていたが、言論界や文学界は、その逆に、私立大学の出身者によって占められていた。経済系の新聞に入社したのも推薦されたからにすぎなかったのである。たった一つ政界入りを除けば、すべては後から選ばれたものなのだ。『湛山回想』にしろ、『湛山座談』にしろ、日本の政治家の回顧録につきものの自己劇化と自己正当化、自己憐憫の物語ではまったくない。湛山は、著作において、その事後性をあるがままに書いている。人の人生など脱線したり、停滞したり、後退したり、飛躍したり、混乱したりしているものなのだ。こうした自発性の欠如と事後的考察がプラグマティズム的思考なのである。

 湛山は、確かに、日本の近代史において、最も理論的な政治家であるが、その理論を原理として要約し、体系化する企ては、彼の場合、ふさわしくない。湛山の経済理論や彼が実施した金融・財政政策は決して複雑なものではないから、検討することはたやすい。不勉強なものを除けば、それは興味深いものではないのである。もっとも、理論の枠組みだけにおいて、彼と比較できる政治家はいないのだが。湛山をめぐる著作はたいてい同じような経路をたどって展開するし、その内容もほとんど同じでそれぞれの区別がつかない。残念なことに、これは誇張ではないのである。せいぜい違いと言えば、政治家になってからの各政治家との抗争にかかるウエートの論旨全体から見た程度なのだ。湛山について知ろうと思うなら、直接彼の著作を読むようにしたほうがいいので、彼に関する解説書を読むことは、間違っても、してはいけない。読んでも読まなくてもいいことしか書いておらず、時間と金の無駄になるだけで、後悔してしまうことは確実である。嘘ではない。われわれはこの作品を書くために、湛山についての作品をかなり集め、そして、読んだが、立ち読みにして、女店員に「立ち読みは困ります」と注意されたら、「これから、飲みにいかないか」と彼女を誘っておけばよかったとすべてに思ったものである。彼らは湛山を扱うには線が細すぎるのであって、別の意味の精神主義者、権威主義者なのだ。われわれがこれから論ずるものはは高校の教室で学習されるレベルにある。専門的研究者ははるかに精緻で詳細に以下で言及するまざまな領域を考察していることだろう。しかし、専門化は思考の進化ではない。『TVチャンピオン』の「手先が器用選手権」に出られない不器用なわれわれは、むしろ、「la gaya scienza 」(ニーチェ)をするのだ。湛山の哲学がいかなる本質を持つのかと言うよりも、どのように表われているのかのほうにわれわれは関心がある。例えば、自由主義を唱える財界人でも、自らの企業を擁護することが優先順位の上位にあり、そのためには保護主義に転向するし、また反帝国主義者であっても、いざ自分の国の行為となると、第一次世界大戦をめぐって第二インターが解体してしまったように、弁護するものも少なくない。湛山の生涯をたどり、思想形成の経路を描き、その発言を丹念に追いかけることは、整合的・目的論的に振り返っているにすぎない以上、経験論的には転倒している。湛山の理論は、具体的な事件や経験的出来事を扱うジャーナリスティックな仕事を通じて、形成された。それは原理の交錯から帰納的に導き出された知識にほかならない。言ってみれば、彼の経験論はただの「予想」なのだ。「予想」である以上、いつでも変更・修正する余地がある。彼は理論を原理化することを斥け、反体系的である。湛山は理念による空虚な議論に経験を提示し、ある一定の原理から求められた演繹的な証明を「幻想」と批判するのだ。そんな湛山も一度だけ理念を押し通したことがある。それは首相辞任である。湛山政権の誕生を待ち望んだ正木ひろしは、この辞任を岸を首相にするという結果として最悪の事態を招いた、と激しく非難した。経験論は、日本では、特に、政治家の間では、しばしば感情論と同一視して理解されている。湛山は経験を論拠として用いることができるとしても、感情論を、説得力の点で、弱いと判断しているが、それは理念に感情や感覚を対置することが別の原理を尊んでいるにすぎないからである。感情論は経験を所有していないものを排除する排他主義なのだ。感情論者は想像力と分析力を軽視し、排他的に、自分の特権意識をふりまわすのである。「ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢て書こうとは思えません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです」(田中英光『オリンポンスの果実』)。このような所有主義に基づく排他主義は自由主義とあいいれないのである。Apnake shagoto janai.

 ところが、湛山の理論はよく誤解される。彼の主張は難解でも深遠でもなく、極めて単純なのだ。湛山が単純であるにも理解されがたくなっているのは、彼が近代を相対化できる観点を保持しているからである。湛山は、『いわゆる軍人の政治干与』において、「黴菌が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気だと知るべきだ」、と述べているが、この意見は近代認識論に基づいていない。体内に病原体がいることがそれだけで病気であるとは言えず、発病するのは患者の抵抗力の低下が主な原因である。ヒポクラテスの医療理論において、病気は特定の、もしくは局部的な原因に還元することはできず、心身の働きを支配する各種の内部因子の間の平衡状態が損なわれた事態であって、病気を治癒するのは医者ではなく、患者自身の力なのだ。一方、コッホやパスツールの病気の特異的原因論が支配する近代は、むしろ、黴菌を病気と見なす傾向にある。近代認識論は、ヒポクラテス的医学を反合理として、排除してきた。湛山に関する作品はすべて近代的問題意識から考察されている。湛山の研究者たちは自らが近代的な認識に基づいているという歴史意識に乏しく、それを普遍的なものと自明視しているのである。Bechap bepeech.

 近代的でないことは反合理的ではなく、むしろ、合理的精神に貫かれていることを意味する点を湛山は、『更生日本の針路』において、次のように述べている。

 それはほかではない。最近米英が製作に成功した広島および長崎において使用した原子爆弾だ。(略)この爆弾の出現は、今日の世界のあらゆる武器を無効ならしめた。今回の第二次世界大戦に、あれだけ華々しき働きをなした飛行機さえも、この爆弾の前には半ば無用化した。原子爆弾を欲する地点に投下するにはただ一揆の飛行機があれば足り、多数のそれは必要とせざるに至ったからである。

 しからば原子爆弾とは何物であるか。それは科学の産物であり、頭脳の産児である。しかるに米英支の三国の条件はもとより、およそ世にあらゆる人為的制限は、過去現在の産物を禁止しあるいは破壊する力を持つであろうが、人の頭脳の活動を禁止し、それより将来産れ出づる物に対して制限を加える途はない。今日の軍事産業は、仮りに将来戦争があるとしても、その際はもはや用なき産業であろう。それは第一次世界大戦においてドイツの軍備を制限したことが、何らドイツの戦争力を挫き得ず、第二次世界大戦の発生を防止し得なかったことに顧みても明白である。

 言うまでもなく日本国民は将来の戦争を望む者ではない。それどころか今後の日本は世界平和の戦士としてその全力を尽くさねばならぬ。ここにこそ更生日本の使命はあり、またかくてこそ偉大なる更生日本は建設されるであろう。しかし原子爆弾の一例は、いかなる針路を日本が取るにしても、その着眼の要点を示すものである。率直にいえば、従来の我が国には、この着眼が足りなかった。竹槍こそ最も善き武器なりとする非科学的精神が瀰漫した。ここに戦争においても今回の不利を招いた根本原因があるが、平和の事業においても同様である。単に物質的の意味でない科学精神に徹底せよ。しからば即ちいかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ。記して以て更生日本の門出を祝す辞となす次第である。

 恐慌が経済的危機であるとすれば、戦争は政治的危機であり、前者と後者は複雑にからみあっているのであって、湛山によれば、戦争を繰り返さないためには「科学精神」が不可欠である。湛山が「科学的」という概念を用いるとき、その含みを果たして認識しているのだろうかという疑いが自然科学者から発せられるかもしれない。湛山は、確かに、現代の自然科学者のように世界を認識してはいないとしても、一九世紀に蔓延した社会進化論のようなあやしい疑似科学観に浸っている科学趣味人ではないのだ。「科学精神」は想像力とは無縁の下等で卑俗な態度ではなく、ある手続きを通す姿勢を意味している。「科学的」は「美学的」に対立する概念である。湛山は世界の存在理由を説明するために導き出される伝統や習慣、神話的観念を批判し、世界の質料の原因を「科学的」に探求する。物事は「科学的」に検討され、利用されなければならない。「将来の戦争を望む者ではない」には、理論的対象と実践的実在をつなぐ方法が「科学精神」に基づく必要があるのである。ジョン・スチュアート・ミルは、政治上・社会上の改革が有効に遂行されるためには、科学的知識が必要であり、最も正確な知識を提供するのは自然科学であって、経験や観察で得られた帰納的知識を推理によって論証するその方法が社会科学に適用されなければならない、と主張した。われわれは「科学」が中立で純粋なものではなく、一つのイデオロギーであることを知っている。だが、この「科学精神」は経験的事象に対して自己完結を排し、現実と理論のたどるある過程を要求する。言葉に表わすことのできないまがまがしい神秘から非合理的に歴史を形成することは斥け、論理的かつ「科学的」に構成された一貫性のある包括的な態度で歴史に望む。

 こうした湛山の哲学は坂口安吾のような古代ギリシア的存在によってのみ理解される。古代ギリシア人は、線の細い近代人に比べて、骨太なのだ。安吾もその単純さにもかかわらず、誤解され続けている書き手である。安吾は戦前の有力政治家を父親に持ち、僧侶になろうとしたけれども、文学者になった。一方、湛山は僧侶の家に生まれ、作家になろうとしたが、ジャーナリストを経て、政治家になったのである。両者の生涯の過程は正反対であるし、二人とも出会うことはなかった。しかし、彼らの認識や主張は驚くほど類似しているのである。tah tiw!

 湛山は、『湛山回想』において、軍部の竹槍による本土防衛計画を次のように回顧している。

 私は、その当時、敵を本土に迎えて、竹槍をもって戦うという、軍部の計画に対しては、武器増産の必要を説くという婉曲な方法で、そのばからしさを早くから論じていた。だが、もし、ほんとうに、そんなばかなことをされては、たまらぬと、鈴木内閣の書記官長迫水久常君には、早く戦争をやめるようにという意味の手紙を持たせてやったこともあった。

 一方、安吾も、『巻頭随筆』において、それを次のように批判している。

 更に又、軍艦マーチ幾度鳴るとも実際の戦果なければ如何にせん。実際の戦果ほど偉大なる宣伝力はなく、又、これのみが決戦の鍵だ。飛行機があれば戦争に勝つ。それならば、ただガムシャラに飛行機をつくれ。すべてを犠牲に飛行機をつくれ。そうして実際の戦果をあげる。万億の文章の力あらんや。ただ、戦果、それのみが勝つ道、全部である。飛行機があれば勝つ、そうきまったら、盲滅法、みんなで飛行機をつくろうじゃないか。そんなとき、僕は筆を執るよりもハンマーをふる方がいいと思う。その代り、僕が筆を握っている限り、僕は悠々閑々たる余裕の文学を書いていたい。文学の戦時体制は無力、矛盾しやしないか。

 彼らは戦争を賛美し、日本の勝利を願っているわけではない。「竹槍」で相手と戦うという織田信長よりはるか以前の方法を肯定しているかぎり、戦争の「ばからしさ」に気がつかないから、「武器増産」を説くことによって、事態を冷静に直視することを勧めているのである。「竹槍」では「飛行機」と戦うことはできないと判断する能力があれば、戦争を続けることの「ばからしさ」を理解できるはずなのだ。「竹槍」で戦争をするという姿勢は、場あたり的・恣意的・美学的で、人が死に、国土が破壊されるという現実的・即物的事態を見通すヴィジョンに欠けている。この戦争が欧米の精神・知識・絶対権に対する挑戦・抵抗であるという政府や軍部のスローガンは虚しく、事後的自己の正当化にすぎない。沖縄でスパイ容疑をかけて、住人を殺してしまったように、彼らは謙虚と自己への懐疑ではなく、小心な支配欲と猜疑心にとらわれているのだ。当時の日本の精神構造は「メギドの丘」なるものの到来の予言を信じたマハリシ・ヨギまがいの「インスタント・カーマ」を唱える「セクシー・セディー」(ジョン・レノン)が代表者のカルト教団のものとあまりに似すぎている。戦前の日本はオカルトに基づいていたのである。カルトの信仰者や「竹槍」主義を盲信した日本人はファウスト博士にほかならない。彼らは悪を確信して行動しているのではないのである。彼らはその行いが善であると信じているから、いかなる事態に遭遇しようとも、転向することは少ない。調和的傾向を好むファウストはいつでも「俗物に堕落するかもしれぬ危険を含んでいる」。むしろ、「否定のうちいつも悪の符号を見る」彼らに欠けているのは、メフィストフェレス的「悪」の要素なのである。「われわれはより善くなるために一度本当に悪しくなることが必要である」。このような人間像は「誠実という自発的苦悩をみずからに負い、そしてこの苦悩はこの人間にとって、己れの我意を滅し、生の本来的意味がそこに導かれることにあるところの己れの本質のあの完全な変革と転倒を準備することに役立つ。真実なものをこのように隠さずに言うことは他の人々には悪意の発露と思われる、なぜなら彼らは彼の中途半端なことと誤魔化したことの保存を人間性の一つの義務とみなし、あんな風に自分たちの玩具をこわす者は悪人に違いないと思い込んでいるからである。彼らはかかるものにファウストがメフィストフェレスに言ったことを叫びかけたくなる、『そこで君は永遠に活動し、有益に創造する威力に冷たい悪魔の拳をさし向けたいのだ』と」(ニーチェ『反時代的考察』)。湛山や安吾は、この批判を通じて、「汝自身を知れ」と「過度を慎め」という古代ギリシアの知恵の初歩を日本人に捧げているのである。戦争に関して、日本人がほかの人々と異なっているのは、亡命をまったく語っていないことなのだ。これは日本人が脆弱だということであり、個人で何としても生きぬくのだというたくましさを持つという意志が日本人にはないのである。日本人はただ内面にその無力さを振り向け、ほかの人を貶めることしか考えないのだ。日本人の戦争についての回想は自己完結的な内面の物語にすぎず、他者による措定を前提にする即物的事実の提示からはほど遠い。両者は徹底として合理的に、そして、近代を相対化して思考する姿勢においても、その「婉曲」な批判の方法においても、たたみかけるような講談調の文体においても、よく似ている。われわれには同一人物がこの骨太な作品を書いているのではないという疑いさえ浮かんでくる。湛山や安吾がこうした「婉曲な方法」をとるのは、パラノイア的誇大妄想にほとんどの国民がかかっている状況で、直接的な軍への非難は、軍部と同様、合理的ではないからだ。

 湛山は、『湛山回想』において、その軍隊の「将校下士馬兵卒」という言葉について次のように述べている。

 しかし私は、一年志願兵が憤慨したり、武田中尉が困った顔をしたのに反して、この言葉をおもしろいと思った。十八世紀以来の西洋の天賦人権論の影響で、人には本来そんな権利が自らそなわっているように錯覚しているが、それはまちがいで、いわゆる人権が尊重されるのは、これが尊重することが社会生活上必要であり、価値があるからに外ならない。その必要がなく、価値がないところには、いかなるものも尊重されない。軍隊は戦争をすることを目的とする機関であるから、ここにおいては一切の価値判断が、この目的に照して行われるのが当然で、もしもこれに反し、補給の容易な兵卒を大事にし、馬を殺し、下士を殺し、将校を殺して顧みなかったら、その軍隊は壊滅するだろうし、その結果は兵卒を大事にすることにもならないのである。

 こう考えれば、将校下士馬兵卒という言葉は、戦争と軍隊を肯定する限り、全く正しい哲学で、非民主的でも、野蛮でもない。恥ずべき点はないのである。兵隊は葉書一枚の令嬢で直ちに補充ができると言う意味で、日露戦争ごろ下士などが兵隊に向かい、「貴様らは一銭五厘だぞ」(葉書は一銭五厘であったから)とどなり散らしたことがあったというのも、右に同じ理論によるのである。(略)

 しかし右の私の説明は、これを裏返せば反軍的にもなる。戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められないぞと、それは教えるものだからである。

 しかし一見機械的に見られる軍隊が、個人の価値をかく真剣に認めていたことは注目すべき事実であって、もちろんそれは単なる人道主義や天賦人権論から出たことではない。強力なる団体は、これを構成する個人の個性を最大限に生かして初めて組織される。この実用上の必要が、軍隊として右の方針を取らしめたものと思う。もちろんこれは日本の軍隊だけの発明ではない。前に引用した「野外要務令」の文章も、ドイツのそれの翻訳であると聞いた。

 湛山は問題を歴史的に考え、ア・プリオリには認めない。湛山の証言は新兵に対するいやからせが文学から始まったことを告げている。人権は決して自明の権利ではなく、あくまで「尊重することが社会生活上必要であり、価値がある」歴史的・社会的状況の下に登場してきた概念である。人権に限らず、いかなるものも「必要がなく、価値がないところ」では、たとえ、現在であっても、尊重されない。「戦争することを目的とする機関」の軍隊には、この目的によって価値判断が決定される以上、人権以上に優先するべきものがあり、むしろ、それを厳守するほうが、結果としては、よりよい利益がもたらされるのである。ある共同体の価値判断の階序は、その存在目的によって、規定される。価値はア・プリオリな構築物として存在しているのではなく、目的にそって、その都度、形成されるのだ。子供には首相の交代以上に、『英語で遊ぼ』のマリー・クロイ・マクナマラ嬢が九四年度いっぱいで降板したことのほうが悲しむべき大事件なのである。従って、目的が崩れれば、その共同体の倫理や論理は無意味になるのだ。

 「軍隊が本来の目的とした戦争そのものに対しては、不断に嫌悪の情をいだいていた」、と言っているように、軍隊の存在に湛山は、生涯、肯定的ではなかったが、近代国家における軍隊の性格を見ぬいている。彼は軍隊を教育機関として認識しているのだ。エリック・ホッファーも、『現代という時代の気質』において、「アメリカ黒人の劣等から平等への移行が、他のどこよりも軍隊においてなされていることは意味深い。現在のところ、軍隊は、黒人がまず人間であって、黒人であるのはほんの二次的なことだといえる唯一の場所である。同様に、イスラエルでも、軍隊が他国語を話す移住者を自尊心あるイスラエル人に変える唯一無二の機関となっている」、と言っている。しかし、軍隊がそうした機能を果たすためには、それを要求する歴史的・社会的背景が用意されていなければならない。近代野球初の黒人大リーガーであるジャッキー・ロビンソンの『自伝』によれば、軍隊の内部でも、その外部と同様、人種差別はあったが、第二次世界大戦が、結果として、黒人の地位向上につながったことは確かである。

 第二次世界大戦に関して、日本では、欧米列強の帝国主義的な植民地支配からアジア諸国を解放するための戦争だったのだという幻想がいまだに根強く残っている。だが、白人にとっては、全体主義からの自由と民主主義の防衛という理念が一般的であっても、アメリカの黒人には、あの戦争は人種差別主義に対する闘いであったという認識がある。ヒトラーは、アーリア人種の優秀さを世界に誇示するための「民族の祭典」と呼んでいたベルリン・オリンピックにおいて、ジェシー・オーエンスが短距離走で金メダルに輝いたとき、祝福するのを拒否した。ナチス・ドイツだけでなく、理念はどうあれ、黒人にしてみれば、日本人の中国人の朝鮮半島の人々に行った仕打ちも人種差別なのだ。

 ベルリン・オリンピックで、オーエンスについで、二着になったアメリカ代表のアスリート、マック・ロビンソンの弟である陸軍少尉ジャック・ルーズベルト・ロビンソンは、一九四四年、テキサス州の陸軍基地の中でバスに乗った際、運転手から黒人用の席に移ることを強いられた。だが、彼は基地内の乗り物では人種差別を禁止する規則を主張し、これを拒否した。彼は軍法会議にかけられたが、無罪を勝ちとっている。彼は、裁判をきっかけに、この戦争が人種差別との闘いを含んでいることを強く意識したのである。言うまでもなく、中尉で除隊したジャッキー・ロビンソンは、後に、これ以上の人種差別との闘いに立ち向かわなければならないことを予想してはいなかった。

 確かに、人種差別への反対はこの戦争以前にもあった。連邦政府から見放された黒人たちは自分たちで学校をつくり、プロ野球のリーグを結成し、リンチ反対の運動を続けていた。ポスト・シーズンに催された大リーグと黒人リーグのオールスター戦で、大リーグが勝ち越したことは一度もない。一九一二年から数年ほど、ジャップ・ミカドという初の日本人プロ野球選手もこのリーグの人気チーム、カンザスシティ・モナクスに所属している。ちなみに、黒人リーグのプレーヤーたちは、大リーグ・オールスターの来日と前後して、日本に三度きている。中学生だった島秀之助は、『プロ野球審判の眼』において、彼らの活躍に「目を丸くした」、と回想している。総合力ではアメリカ野球最高のキャッチャー、ビズ・マッキーがキャプテンとして二度きているが、大差になって試合が壊れないようにとの配慮から、ショートやピッチャーをしたり、本来右打ちだが、左で打ったりもしている。それでも、日本人でまだ誰もオーバー・フェンスの打球を打っていなかった神宮球場で、ライトの観覧席にホームランを叩きこんでいるのだ。後に、彼はロイ・キャンパネラやモンテ・アービンを発掘して、育てあげ、大リーグに送り出している。「マッキーは日本への巡業の話もよくしてくれました。チーム全員が、日本でどんなに楽しい時を過ごしたか。また、日本人がどんなに親切であったかなど、何度も聞きました。どれだけの金を稼いだかは話題にはなりませんでした」(モンテ・アービン)。マッキー以外にはこのチームのメンバーは、三人がリーグのチームのレギュラーであるだけで、ほかはセミプロだった。彼らには一度も勝てなかったが、日本側には不思議と爽快感が残ったようである。大江健三郎の『飼育』に反して、人種差別に苦しんでいる黒人たちは黄色人種の日本人にやさしかったのだ。さらに、黒人ルネサンスと呼ばれる独特の芸術運動もあった。けれども、多くの黒人たちの間では無力感が広がり、黒人であることを恥じるものも少なくなかったのである。六〇年代に「大きく叫べ、黒は誇りだということを!」とジェームズ・ブラウンは叫んだが、それはまだ遠い話である。第二次世界大戦に従軍したことで、黒人たちには少しずつであるが誇りというものが生まれていった。ヤンキー・スタジアムの前で、一九四三年に、黒人たちは、「われわれは銃弾を扱えた、ボールだって扱える!」というプラカードを手にして、人種差別撤廃のデモを行っている。また、彼らは都市にある軍需産業の工場で働くことによって、経済的にも力もつけていった。黒人は政治的・経済的にも自信を持ち始めていたのだ。つまり、この第二次世界大戦という人種差別主義との闘いから、アメリカ国内にある人種差別の不当性への意識も高まったのである。

 二〇世紀はアメリカの世紀、金融資本の世紀、電気の世紀、大衆の世紀である。一方、十九世紀はイギリスの世紀、産業資本の世紀、蒸気の世紀、ブルジョアの世紀である。サッカーは十九世紀的な問題を共有している世界において普及する。フーリガンはパンクを生み出した七〇年代のイギリスで誕生したが、アメリカはパンク・ムーヴメントの影響を、直接的には、ほとんど受けなかった。イギリスのスポーツであるサッカーがアメリカに根づかなのは当然なのだ。

London calling to the faraway towns

Now that war is declared -and battle come down

London calling to the underworld

Come out of the cupboard, all you boys and girls

London calling, now don't look to us

All that phoney beatlemania has bitten the dust

London calling see we ain't got no swing

'Cedt for the ring of that truncheon thing

The ice age is coming. The sun is zooming in

Engines stop running and wheat is growing thin

A Nuclear error, but I have no fear

London is drowning -and I live by the river

London calling to the imitation zone

Forget it brother an´ go it alone

London calling upon the zombies of death

Quit holding out -and tale another breath

London calling -and I don't wanna shoot

But when we were talking -I saw you nodding out

London calling, see we ain't got no highs

Except for that one with the yellow eyes

The ice age

London calling, yeah, I was there too

And you know what they said? Well some of it was true!

London calling at the top of the dial

After all this, won't you give me a smile?

The Clash LONDON CALLING"

 世界各地におけるサッカーの異常の熱狂は有名だが、それはサッカー自身ではなく、内政の不手際による民衆の不満の鬱積が原因なのだ。ただサッカーはそのはけ口になっているにすぎない。サッカーがいかに世界で熱狂しているかを語るだけなら不十分である。「スポーツとりわけフットボールもまた『若者を政治から離し、反動的傾向を強める直接的役目を果たしている』(土曜日の午後、イギリスのフットボール場へ行けばわかる。あるいはみじめなアルゼンチン人が、自分たちを苦痛と貧困のどん底に落とし、非人間的なしうちをくり返すファシスト独裁政権を支持するために、ぶっつづけに何日も大通りをワールド・カップをかかげパレードしている様をみるがよい)」(デヴィッド・Z・マイロヴィッツ『ライヒ』)。フーリガン的存在は、かつては、アメリカの大リーグにもつきものだったが、大衆文化が花開く一九二〇年代までに一掃された。カトリックではあったけれども、白人のベーブ・ルースの登場により、野球は「家族で楽しめる健全な娯楽」と認知された。今日、アメリカ人は、スポーツ観戦においては、最も成熟していると言っていいだろう。

 サッカーは、その王様に、ブロンドの長身でハンサムな白人ではなく、笑顔を絶やさない小柄で短足の黒人を選んだ。「ペレ」と呼ばれるサッカーの王様は、ワールド・カップに四回出場して、うち三回優勝、通産一二八三ゴールを始め、多くの栄光と伝説に包まれている。ほかの誰にも許されなくとも、彼なら大丈夫という特権がある。なぜと問われても、その答えはただ「それは彼がペレだから」と答えるほかない。一九四〇年に生まれのペレの本名など知る必要はない。ブラジルの大統領選挙がある度に、出馬を噂されるペレは、世界中の白人指導者、そしてローマ法王とも肩を並べられる唯一の黒人だと言ってもいいだろう。ただしアメリカ人は別だ。アメリカ人はペレよりもマイケル・ジョーダンを偉大だと考える。

 ブラジルは、比較的、人種差別がない国だが、それでも黒人の進出にはある期間を経なければならなかった。十九世紀は、スポーツはブルジョアの娯楽だった。二〇世紀初頭、黒人はサッカー場に近づくことすらできなかった。あの二〇年代に入って、初めて、黒人の出場が認められた。けれども、黒人が白人に反則した場合、フリーキックの前に一発仕返してよいというルールがあった。そのため、黒人のプレーヤーは接触プレーではなく、フェイントで相手をかわす技を身につけた。ブラジルは黒人選手の恩恵に預かって、一九五八年のスウェーデン大会で初優勝した。そして、初出場したサッカーの王様は六ゴールした。中心選手は二〇年代から三〇年代に生まれたものたちだったから、第二次世界大戦で多くの若者を失ったヨーロッパに比べて、ラテン・アメリカ諸国があまり戦争の影響を受けなかったこともブラジル優勝の一つの原因だった。現在では、ヨーロッパ諸国でもかつて支配していた植民地出身の黒人選手たちを代表に選出することさえある。しかし、たとえブラジルであっても、監督やクラブ幹部の多くが白人に占められているような白人優位の状況は依然として続いている。

 大リーグのコミッショナーであるハッピー・チャンドラーは、一九四五年、「黒人青年が、沖縄やガタルカナルで立派にやれたのなら、野球界でも立派にやれるだろう」とカラー・ラインの撤廃を表明した。さらに、大戦前まで、黒人人口の七五%以上は南部に住んでいたため、ほとんどのチームが北部に本拠地を置いていた大リーグは、営業面からも、黒人の参加に踏みきれなかった。けれども、大戦後には、北部にも黒人人口が大幅に増え、選手不足から低迷していた観客動員を延ばす点においても、有望な黒人選手が不可欠だったのである。コミッショナーの声明を受けて、ブルックリン・ドシャースの共同オーナー兼ジェネラル・マネージャーのブランチ・リッキーは、ニグロ・リーグではまったく無名のジャッキー・ロビンソンに白羽の矢を立てた。「ブランチ・リッキーにしてみれば、ジャッキーがニグロ・リーグのスターでないことは百も承知だった。すぐにチームで役立てるのなら、他の選手がいいだろう。しかし、将来性となると、今のスターでは駄目だろう。ジャッキーはまだ若く、鍛えようになっては、どのようにもなる。その上、彼にはUCLAに通い、白人と共にチームを組んだ経験もある。黒人としてどのように振る舞えばいいかも分かっているようだし、忍耐力もありそうだった」(佐山和夫『黒人野球のヒーローたち』)。ジャッキーは新人王を獲得し、その結果、ロイ・キャンパネラやサチェル・ペイジ、ドン・ニューカム、モンテ・アービン、アーニー・バンクス、ウィリー・メイズ、ハンク・アーロンなど次々と黒人が大リーグ入りを果たし始めるのである。大リーグで新人王はジャッキー・ロビンソン賞とも呼ばれている。ナ・リーグでは、一九四九年から十一年間に、黒人が、実に、九回もMVPに輝いているのである。だが、黒人の大リーグ監督の誕生となると、ベトナム戦争が終結した一九七五年の(クリーブランド・インディアンスでプレーイング・マネージャーとなった)フランク・ロビンソンを待たなければならなかった。この黒人の社会的地位の向上は六〇年代に、公民権運動につらなっていく。第二次世界大戦はあくまでも法的であったから、このような劇的変化をもたらし得たのであって、政治的であったベトナム戦争の場合、そうはいかなかった。軍隊が「教育機関」として機能したのは反ファシズムという明快な理念を打ち立てられた第二次世界大戦であって、反共産主義という理念が帝国主義戦争だという事実認識によって覆されたベトナム戦争においては、軍隊は麻薬や犯罪といったアメリカの社会問題の源泉になったのである。そんなスローガンなどスリー・ドッグ・ナイトの『オールド・ファッションド・ラブ・ソング』だった。『ギャラメント』や『コンバット』とベトナム戦争についての映画を比較すれば、アメリカ市民にとっての意味あいの違いは明確である。だいたい『地獄の黙示録』のメーン・テーマがザ・ドアーズの『ジ・エンド』なのだから。ベトナム戦争はともかく、第二次世界大戦に関して、退役軍人が認識を改めないのは、確固とした理念があるからなのだ。カシアス・クレイはベトナム戦争に反対して徴兵を拒否した。いや、後に合衆国大統領になるビル・クリントンもベトナム戦争の反対デモをやっていたくらいなのである。だが、あれだけのデモや反対運動を抱えこめていたアメリカは、反対運動もろくにできず、つねにマッカーシズムの状態にあった戦前の日本は比較にならないことは認知していなければならない。アメリカの反戦運動は外向的であったため、文化芸術では高いレベルの作品を生みだし、ウッドストックという頂点を迎える。ジャッキーの息子は、『自伝』によると、ベトナム戦争に従軍して麻薬中毒者となり、交通事故死してしまう。引退後は黒人の地位向上運動に積極的に参加していたジャッキーは、この出来事から、今度は麻薬撲滅運動に献身することになるのである。「二つの戦争が、私たちの世代よ、おまえの道を照らしていた」(アンナ・アフマートワ『死者に捧げるレクイエム』)。

 武力に対して武力を用いることを(幻想的な)理念に選んだ日本人とは違って、ジャッキー・ロビンソンは右の頬を叩かれたら、左の頬をさしだしながらも、相手に思い知らせることができる勇気、すなわち「どんなことをされても仕返しをしない勇気」を持っていた。この偉大な黒人の非暴力運動があったからこそ、村上雅則や野茂英雄が大リーグのマウンドに登れたということを日本人はよく理解してなければならないのだ。

 さらに、黒人は非暴力によって公民権までも獲得するのだが。その運動の指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師は、『自由への大いなる歩み』において、非暴力について次のように述べている。

 まず第一に非暴力抵抗とは決して臆病者の用いる方法ではないということを強調しなければならぬ。これはあくまでも抵抗の一種なのだ。おそろしいからといって、あるいはたんに暴力の手段をもっていないからといって、こうした方法を用いるものは、決して非暴力的抵抗者ではない。

 非暴力を特徴づける第二の基本的事実は、反対者をうちまかしたり侮辱したりすることは求めないで反対者の友情と理解を勝ちとることを求めるということだ。非暴力的抵抗者は、しばしば、非協力とかボイコットとかによって抗議の意志を示さねばならない。

 第三の特徴は、攻撃の目標がたまたま悪を行うようになった人間ではなく、むしろ悪そのものの力だということだ。非暴力的抵抗者がうちやぶろうと求めるものは悪そのものなので、決して悪の犠牲にされた人間ではない。

 第四の特徴は、報復しないで苦痛を甘受し、反撃しないで反対者の攻撃を喜んでうけいれることだ。われわれが自由を獲得するまでにはあるいは血の川を流さねばならぬかもしれぬが、このとき流された血はわれわれの血でなくてはならぬ。ガンシーは、同胞たちにむかってこう語った。非暴力的抵抗者は、必要とあらば他人の暴力を甘受するが、決してみずから反対者に暴力をふるおうとはしない。彼は牢獄を恐れて逃げかくれたりはしない。……

 非暴力的抵抗に関する第五の点は、それがたんに外部的な肉体による暴力をさけるばかりではなく、内面的な精神による暴力をもさけるということだ。非暴力的抵抗者は、反対者をうち倒すことを拒絶するのはもちろんのこと、彼を憎むことさえも拒絶するのだ。非暴力の中心には愛の原理がある。全世界の抑圧された人々は人間性の尊厳をまもるための闘いにさいして、反対者にたいして寛容さを失ったり、憎悪の闘いにふけったりする誘惑に屈してはならないと。暴力にたいして暴力をもってむくいるということは、なんらの効果ももたらさず、かえって宇宙のなかの憎しみを強めるにすぎない。人々は、生活の歩みのなかで憎しみの鎖をたちきるにたりるほどの理性と道徳とをもたねばならない。そしてこのためには、愛の倫理をぼくたちの生活の中心に向ってなげかけることが絶対に必要なのだ。−−

 非暴力抵抗に関する第六番目の基本的な事実は、それが、宇宙に味方するという確信にもとづいていることだ。したがって、非暴力を信じるものは、未来をふかく信じている。こうした信念こそが、なぜ非暴力的抵抗者が、報復しないで苦痛を甘受することができるかといういまひとつの理由なのだ。

 「未来をふかく信じてる」ことができないものたちは、短絡的に、暴力に訴えでる。日本人は、このキング牧師の理論と、まったく逆のことをして、破滅への馬鹿げた歩みを進んだのである。「こうした信念」もなく、竹槍による本土防衛を考えていた日本政府は、そんなことを計画するよりも先にすべきことがあったのに、沖縄を犠牲にしたのだ。ポツダム宣言受諾後、米軍基地反対運動を「耳より上に手を上げない」をモットーに忍耐強く続け、一九六七年、米軍基地近くの「伊豆島団結道場」の建設をピストルと棍棒で監視していた米兵の前に、次のような非暴力的抵抗の立札を立てた沖縄の人々に、今なお、日本政府は不当な犠牲を強要しているのである。

 米軍に告ぐ。

 アメリカのハト派である皆さんなら兄弟です。御苦労様です。

 尊敬する米兵に告ぐ。

 人相からみて、きっとフランクリンやリンカーンのような人間と思います。

 理解あるアメリカ人に告ぐ。

 米国で家族が待っています。ベビーは大きくなりました。百歳たらずの人生をしあわせにおくりましょう。世界の人類はみんな兄弟姉妹です。にらみ合いをしないで仲よくしましょう。

 賢明にして理解ある米合衆国民。現地隊長ドリー中尉もいい人。嘉手納からくるロー大佐も人間性豊かな、理解ある立派な方。私たちは皆さんの善意に学びたい。

 土地をかえせ、ここは私たちの土地である。

(阿波根昌鴻『米軍と農民』)

 徴兵制度に基づく常備軍は国家の安全保証だけでなく、従来の諸階級・諸生産様式から解放する教育機関なのである。近代軍は、ビスマルクの「現在の問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」という一八六二年の北ドイツの帝国議会における演説が物語っているように、中央集権的ハイアラーキーによって明確に目的づけられている。湛山は、「軍隊に興味を感じたのは、それを一種の社会の縮図と見、また一種の教育機関として観察してのことであった。近代国家の構成員の精神を叩きこまれた軍隊経験者は、近代軍の司令官でありながら、明治天皇に殉死した乃木将軍をアナクロニズムと冷笑したのだ。軍人は武士ではない。武士を、農民と同じ人間として、一つの範疇に囲いこむことが軍隊の機能なのだ。「国家の武力が常備軍となり、国防という特殊な職務のための使命が一つの身分となる必然性は、その他のもろもろの特殊な契機や利益や職務が、婚姻となり、商工業や政治家や役人などの身分になる必然性と同じである」(ヘーゲル『法の哲学』)。そして、軍隊は、植民地の人々も、統治する本国の人々の「身分になる必然性と同じである」と国民とするのである。An-nyong ha-shim-ni-ka.

 実際には、近代軍は、日本においては、合理的教育機関にはならず、時代錯誤な「竹槍」精神によって運営された。「輜重輸卒が兵隊ならば蜻蛉蝶々も鳥のうち」という言葉がまかり通った軍の上層部の報告書は、本来、機能性を重視してシンプルに書かなければならないはずなのに、やたら「その場限りの大言壮語諛辞讃詞」や「無用の粉飾」が多く、まったく要領を得ない意味不明の作文にすぎない。第二次世界大戦の開戦はこのアナクロニズムが招いた必然的帰結である。その「ばからしさ」の蔓延する中、湛山は、戦争を回避することに努力し、開戦すると、早く終わらせるように伊勢神宮に日本が戦争が負けることを祈っていたのだ。Kiitos.

 軍隊に関してだけではなく、女性についても同様のことが言える。女性は解放されるべき存在ではない。湛山は解放という近代的な意味によって女性問題をとらえないのだ。

 湛山は、『維新後婦人に対する観念の変遷』において、女性問題は解放という観念や理念に集約されはしないと次のように述べている。

 しかるに我が社会は今日に至るもなおこの時勢の変を察せず、依然として良妻賢母、即ち汝らが唯一無二の職業は妻たり母たることなりと教ゆる主義によって女子を教育しておるが故に、ここに種々なる弊が現れつつある。例えば、女子が職業婦人たることを以て何らか自己の品位の下落であるかの如く考え、出来るだけ遊食の途を探さんとしておることの如きはその一である。また近頃世間に往々問題となっておる或る一部の放縦なる女文士の如き、吾輩の見る処を以てすれば彼らは決して真の新しき女であるのではなくして、ただ少しく新しき知識と感情とを持っておるがために、在来の奥様御嬢様の如き単純なる娯楽を以て満足しておられず、何らか新しきものを求めんと、即ちかの如き放縦なる生活をなすに至ったものに過ぎぬ。即ち、畢竟女子は遊食していられるものと心得ておる人々であって、経済上において依然として良妻賢母主義の上に立てるものである。かくの如く我が社会は堅実にして実用的なる婦人を得んと欲して、かえって意外なる奇形の婦人を作りつつある。これ今において我が社会の深く考えなければならぬ処である。而して吾輩はこの救済策として、我が社会の速やかにその良妻賢母主義の教育を廃し、而して彼ら婦人をば一日も早く社会上経済上の彼らの地位を自覚し、これに処するの途を講じ得るが如き者にする手段を採らんことを希望する者である。

 良妻賢母主義は歴史的な概念であり、それは封建制によって可能だった。いかなる制度も「現れた時と処との必要に応じて生じた」(『自由思想協会趣旨書』)ものである。「女をよくいう人は、女を十分に知らない者であり、女をいつも悪くいう人は、女をまったく知らない者である」(モーリス・ルブラン『怪盗アルセーヌ・ルパン』)けれども、道徳的に退廃すると、必ず、良妻賢母主義を提唱する反動が出現するが、それを支えるものがなくなれば、たんなる時代錯誤的なイデオロギー化するだけなのだ。女らしさの判断は家庭の中であるため不安定である。しかも、それは、社会的評価を受けた男が、しばしば妻を賞賛する際、「もし妻がいなかったなら……」という仮定法で語るように、事後的にしか評価できない。通常、自分の過去の経験に照らして、後に続くものへの言動には配慮するものである。ところが、女らしさは先天的と言うよりは後天的なものと見なされ、女らしさを欠くものは努力を怠る怠けものとして、人間的に、非難されてしかるべきだというわけだ。男らしさに対して、女らしさは断念によって始まる。女らしさの教育が、多くの場合、「ああしてはいけない」とか「こうしてはいけない」といった禁止によってなされている。女らしさを身につけるためには、外に出て、自由にやりたいことをしたいという希望を断念しなければならない。女らしさはネガティヴにならざるを得ないのである。男らしさは、主に、家の外によって判断され、それは社会的地位や収入など目に見える形で表われる。一方、女らしさは経験的推論によって評価されるのだ。推論である以上、明確な基準があるわけではなく、その評価は個々によって異なる。だから、それは陰湿さや意固地さを増幅させてしまうことが少なくないのである。自分自身が受けた扱いを忘れられないから、次に続くものを簡単には認めることができない。女らしさとはそうした屈折によって生まれる。男らしさの場合、男らしさが弱いからと言っても、人間性に関する非難にまでは至らない。男らしさの象徴である太い腕や広い肩は先天的なものであるから、本人には、どうにもならないものである。不特定なものには理解できず、見る目を持つ特定のものに見てもらわないかぎり、女らしさは報われないケースが少なくない。ところが、男らしさは、即座に、必ず、評価されるから、他者の存在を認知できる。女らしさは他者の目を認めることができず、自分の評価は自らが下すようになってしまうのである。「妻が家庭を守ってくれていたから……」と告げる男があるが、女らしさは守ること、すなわち保存することであり、直接的には新たな価値を創造するものではないことを明らかにしている。女性のほうが、男性自身よりも、夫の社会的地位にこだわるのはそのためなのである。「われわれは心から健康的な国民を作りあげたいと思う。男性は健康で頑丈に、女性はあくまで女性的にというのがわれわれの願いである。そしてそれが、われわれが現実に健全な生活様式と健全な生活文化の代表者となるゆえんである」(ヒトラー)。

 男女問わず、これまで、「婦人の力をかりることを忘れていた」。確かに、女性教師もいるだろう。「しかしそれは教師としての職業を有する婦人を用いているのであって、必ずしも婦人そのものの性能を尊重していたわけではない」(『婦人を社会的に活動せしめよ』)。雇用の機会が均等になることは、当然であるが、それだけではまだ不十分であって、「婦人そのものの性能を尊重」しなければならないのである。ところが、「或る一部の放縦なる女文士」は「婦人そのものの性能を尊重」に背を向けている。「ただ少しく新しき知識と感情とを持っておる」彼女たちは既存の概念に対するアイロニーであって、その行動はむしろそれを強化するにすぎないのである。彼女たちは抵抗しているかに見えて、実は、保守的な反動と同じ構造を持っているのだ。こういう女性はいつの時代もいるものである。彼女たちに欠けているのは自己肯定であって、支えるものは自己嫌悪と自己憐憫にすぎない。彼女たちは愛を文学作品に描くが、それはたんに儒教道徳に対するアイロニーの域にとどまっている。イレーネ・サエスを見ならうべきだろう。Ma saghaun ki?

 一九九五年九月一四日付朝日新聞朝刊の『声』の欄に、次のような投書がよせられていた。

 先日、出張で中国に出かけた折、成田の空港待合室は、一見して北京の国連世界女性会議に参加するとおぼしき日本のご婦人方で、にぎわっていました。

 私の搭乗機は、定刻になっても動き出す気配がありません。機内放送によると、数人のお客の到着が遅れているので、出発にいま少し時間を要するとのことでした。

 やがて、いっぱい荷物を抱えて乗り込んできた一行は、果たして女性会議の参加者たちでした。彼女らは通路側のお客に自分の荷物を次々にぶつけても、「失礼」のひとこともなく、平然と席に着きました。

 数人のはずだった遅刻客は数十人にのぼり、著名な婦人団体の名札を付けた一行は、自分たちのせいで他の数百人のお客に迷惑をかけたという認識はあったでしょうか。結局、機は定刻を一時間近く遅れて離陸しました。

 くだんの会議では、女性の権利の平等や拡大が声高に叫ばれ、それ自体は大変結構なことだと思います。各国の進歩的な女性が集う会議に臨むのは名誉なことには違いないでしょうが、周囲の人々への気配りや心遣いすらなくして、何が「女性会議」だろうかと、汗だくで荷物を上げ下げする婦人のたくましい後ろ姿を見ながら感じました。

 「大変結構なこと」という嫌味な表現を用いていることから、彼が性差別に関してどれほどの「認識」を持っているかは疑問であるとして、確かに、日本のいわゆる「進歩的な女性」の「周囲の人々への気配りや心遣い」のない行動は目につく。むろん、これを根拠にフェミニズムを否定することはできない。「進歩的な女性」にかぎらない。日本の保守的な女性たちのこうした礼儀知らずな多くの行動にわれわれは直面する。けれども、保守的な彼女たちの場合、その言動はたんに品がないか何らかの権力を背景にした虎の威をかる狐だという素朴な原因によるのだ。われわれは、そんな光景を見ても、それを編集したテレビ番組も制作されたことかあるくらいなのだから、ただ馬鹿は相手にすまいと思うだけである。男女問わず、世の中で保守派を自認している人やそう思われている人というのは、劣等感の塊であることが少なくない。うぬぼれが強く、虚栄心を満足することに熱心で、無視されるくらいなら、顰蹙をかう方を選ぶという有様なのだ。一方、「進歩的な女性」の場合、こうした行動はわれわれには非常に気になる。と言うのも、彼女たちはあたかも「周囲の人々への気配りや心遣い」を気にしないことが「女性の権利の平等や拡大」であるとでも言わんばかりだからである。

 アウシュヴィッツで両親や妻、子供がガスで殺され、あるいは餓死してしまい、家族の中で、唯一そこから生還したV・E・フランクルは、『夜と霧』において、次のような体験を紹介している。

 収容所生活の最後の頃の極度の心理的緊張、このいわば神経戦から心の平和へと戻る道は決して障害のない道ではなかった。そしてもし人が収容所から解放された囚人は何らの心理的保護を必要としないと考えたらそれは誤りである。むしろまず第一に次のことを考えねばならないのである。すなわち収容所におけるような極度の心理的圧迫の下にいた人間は解放の後に、しかも突然の圧迫除去の故に、ある心理的な危険に脅かされているのである。この危険(精神衛生の意味における)はいわば心理的なケーソン病潜函病にあたるものなのである。ケーソン労働者が(異常に高い気圧の下にある)潜函を急に出るならば健康を脅かされるように、心理的な圧迫を急に除かれた人間もある場合には彼の心理的道徳的健康を損なわれることもあり得るのである。

 特にいくらか原始的な性質の人間においてはこの解放後の時期に、彼等が依然としてその倫理的態度において権力と暴力とのカテゴリーに固執しているのが認められることがあった。そして彼等は解放された者として、今度は自分がその力と自由を恣意的に抑制なく利用できる人間だと思いこむことがあった。彼等は権力や暴力、恣意、不正の客体からその主体になったのである。さらに彼等はまた彼等が経験したことになお固執しているのである。このことはしばしばとるにたらない些細なことの中に現れるのであった。たとえば、一人の仲間と私とは、われわれが少し前に解放された収容所に向って、野原を横切って行った。すると突然われわれの前に麦の芽の出たばかりの畑があった。無意識的に私はそれを避けた。しかし彼は私の腕を捉え、自分と一緒にその真中を突切った。私は口ごもりながら若い芽を踏みにじるべきではないと彼に言った。すると彼は気を悪くした。彼の眼からは怒りのまなざしが燃え上った。そして私にどなりつけた。「何を言うのだ! われわれの奪われたものは僅かなものだったのか? 他人はともかく……俺の妻も子供もガスで殺されたのだ! それなのにお前は俺がほんの少し麦藁を踏みつけるのを禁ずるのか!……」何人も不正をする権利はないということ、たとえ不正に苦しんだ者でも不正をする権利はないということ、かかる平凡な真理をこういう人間に再発見させるには長い時間がかかったのである。そしてまたわれわれはこの人間をこの真理へ立ち帰らせるよう努めねばならないのてある。なぜならばこの真理の取り違えは、ある未知の百姓が幾粒かの穀物を失うのよりは遥かに悪い結果になりかねないからである。なぜならば私はシャツの袖をまくり上げ、私の鼻先にむきだしの右手をつき出して「もし俺が家に帰ったその日に、この手が血で染まらないならば俺の手を切り落としてもいいぞ。」と叫んだ収容所の一人の囚人を思い出すのである。そして私はこう言った男は元来少しも悪い男ではなくて、収容所でもその後においても常に最もよい仲間であったことを強調したいと思う。

 この相殺法批判を忌まわしい強制収容所から解放されたものに限定することはなく。日本の「進歩的な女性」に対しても適用してかまわないであろう。われわれが「進歩的な女性」の「周囲の人々への気配りや心遣い」に憤りを覚えるのは、「元来少しも悪い」女ではないはずの彼女たちが「不正に苦しんだ者」であるから、「不正をする権利」を持っているかのようにふるまうからなのである。言うまでもなく、「たとえ不正に苦しんだ者でも不正をする権利はないということ」を日本の「進歩的な女性」だけでなく、われわれすべてがつねに自らを戒めなければならない。ek minat thahrie.

 三日後の九月一七日の同じ『声』欄に、先のメンバーの一人小林五十鈴が次のような投書で答えている。

 十四日の本欄「気配り欠ける進歩的な女性」を投稿された東京の川原直樹様ほか八月二十八日午前十時フライトにご搭乗されていた皆様、一時間も離陸が遅れてしまって本当に申し訳ございませんでした。

 私も第四回世界女性会議に参加するため川原様と同じ飛行機でした。やっと機内に到着した時に、「お待たせしてしまった。きっと、いろいろ所用で上海にお出でけの方もいらっしゃるだろうに」と申し訳なく思いました。心の中ですみませんといったのですが……。

 しかし、その日は本当に成田は混んでいました。私たちは午前八時集合でした。トランクの受け取りにもいつもの何倍もの時間を要しました。パスポートのチェックも時間を要し、いらいらしました。なぜ、こんなに時間がかかってしまったのか、「北京会議の七日間」と別にして究明しなくてはと思っています。

 日ごろ、女性として主義主張していく中で、いちばん気を付けなくてはと思っていることは「年をとるごとに礼儀を忘れない人間でありたい」ことです。

 しかし、北京会議で感じたことは、日本の女性はおとなしいということでした。北京会議への参加は、名誉でもなんでもありません。国連と中国のはざまで不安いっぱいでした。

 田中康夫が航空に関することはよく書いてあるから、それを読めばいいので、別に空港で「こんなに時間がかかってしまったのか」を、「究明しなくてはと」小林五十鈴が思う必要はない。それより、この女性作家のエッセーによく見られるような屈折した文体を何とかして欲しいとわれわれは望む。性差別撤廃の主張と同時に、徒弟制が蔓延しているほとんどの女性団体内部の民主化を女性は忘れてはならない。この民主化なくして、早急な性差別撤廃はありえないのである。華麗なファースト守備でファンを魅了した松原誠は、「『内に秘めた闘志』なんてのは嘘ですね。外に闘志が表われて、それをみんなにアピールできなければだめなんです。表に出てこないなら、その人には闘志なんてないんですよ。どうせアウトになるんだからって、一塁まで全力疾走を怠るとしたら、ファンも、チームメートも、監督やコーチも、その人に誰も納得しませんよ。たとえ、アウトになっても、全力疾走して初めてみんな納得するんです。どんなにいい打者だって、十回打席に立てば、七回はアウトになるんです。だから、結果はいいんです。結果は野球を知っていればわかることですから。ほんとうに大切なのは、内容、アウトになる内容なんですよ。何かが起こりそうだと期待させる形で、アウトになるようにしないと誰も納得できませんね」、と言っている。松原は投手以外のすべてのポジションを守り、足は極めて遅かったが、強肩で、バレリーナのごとく、体が柔らかくて、センスがよく、クレバーだったため、抜群の守備力を発揮した。このユーティリティー・プレーヤーは、もし合衆国でプレーできていたら、日本以上の評価を受けていたことだろう。力が入りすぎていては、物事はうまくできない。そうするには、肩の力を抜いて、柔軟になることが必要だ。肩の力を抜くには、まず、それ以外の部位に力を入れてみるようにしたらよい。従って、われわれが「日本の女性」に限らず、日本人全般に感じることは「おとなしい」ではなく、包容力のなさである。アリストファネスの『女の議会』の世界の到来をわれわれは待ち望んでいる。

 ノルウェーのクォータ制のごとく、すべての職場において一方の性は全体の四〇%以下となってはならないという法整備をして、自由競争を育てたほうがよいと思うのだけれども、男女差別のために、女子学生は就職難だが、文学の世界は女性の書き手がまるで足りない。エリック・ホッファーは、『現代という時代の気質』の中で、すぐれた著述家を生む要因として「失業」をあげている。力があっても、時間がなければ、作品は書けない。馬鹿な企業など相手にせず、彼女たちは文学にきて、その力を発揮して欲しいものである。われわれも、就職できなかったことがきっかけの一つになって、この世界に入ったのだ。Mi bawl til mi yeye watah done. 平野謙が見たなら、典型的な生活不能者だと、われわれに頬ずりしつつ、涙を流して喜ぶに違いない。Ik heb jou lief.

 愛は非常に厄介である。毎日、今日こそはあの人をあきらめようと思うのだが、相手を忘れようと、こころから祈っていたはずにもかかわらず、ふと気がつくと、前にも増してあの人を愛している自分を確認し、絶望的に、なかば呆れ、なかば笑ってしまう。この事態を迎えてしまうのは、決して、意志が弱いからではない。何か報われたかと言えば、そこにあるのは、ただ悲惨なまでのつらさの記憶だけである。何も手につかないくらいであっても、想いはことごとく裏切られ続けている。しかし、これは浪速節ても、偶像崇拝でもない。愛は子供、もしくは子供のような人にしかわからないし、できないものなのだ。大人が愛の真似ごとをしている姿はあまりにも見苦しく、通俗的すぎる。これが理解できないものは俗物と自己認識したほうがよい。このイデオロギーは苦しみを解釈し、それをひそかに忍ぶことを支持する良妻賢母主義に属する。だが、愛は冷静であり、誠実である。ほとんど脈がないにもかかわらず、「おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって礼節あるものたらしめる必要がない」(ニーチェ『反キリスト者』)となり、持続する何ものかが愛だと言うほかない。Tack fr sllskapet!

 彼女たちはこういう愛を知らないのである。はっきり言って、われわれは彼女たちに魅力を感じない。ビバリッジ報告のごとく「ゆりかごから墓場まで」誰からも愛される人間としてふるまっているはずだから、スポンサーからクレームがつくことなどありえないわれわれは、彼女たちのために、エルヴィス・コステロの『アイ・ウォナ・ビー・ラブド』を歌わずにはいられないのである。Szeretlek.

 安吾は、『悪妻論』において、良妻と悪妻について次のように述べている。

 いわゆる良妻のごとく、知性がなく、眠れる魂の、良犬のごとくに訓練されたドレイのような従順な女が、真実の意味において良妻であるはずはない。そしてかかる良妻の付属品たる平和な家庭が、尊まるべきものではないのは言うまでもない。男女の関係に平和はない。人間関係に平和は少ない。平和を求めるなら孤独を求めるに限る。そして坊主になるがよい。出家遁世という奴は平安への唯一の道だ。

 魅力のない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである。男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題のほかだ。

 才媛というタイプがある。数学ができるのだT、語学ができるのだか、物理ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察についてはゼロなのだ。つまり学問はあるかもしれぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。

 まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。

 苦しめ、そして苦しむのだ。それが人間の当然の生活なのだから。しかし、流血の惨は、どうかな? 平野君! ああ、戦争は野蛮だ! 戦争犯罪人を検索しようよ。平野君!

 残り物に福があると売れ残った牛乳を売りつけられたことのあるわれわれは、良妻賢母主義者や「或る一部の放縦なる女文士」とは違って、「総ての問題を現実の生活に即して思考すること」が大切であり、「一切を我が現実の生活に照し、荀も有用有益なるものは採用し、之に反するものは排除する」(『自由思想協会趣旨書』)。湛山の初期の文芸批評は、安吾と同様、この問題意識によって貫かれている。女性も男性と同じように働いてしかるべきである。女性の社会進出は「我が現実の生活に照し、荀も有用有益なるもの」なのだ。女性が「社会上経済上の彼らの地位を自覚」することは、もはや、「我が現実の生活」には不可欠な前提なのである。湛山には、男が男であるというだけで、権力を享受している保護主義的弱者の支配を弁護することはできない。もう今は十二単の時代ではないのだ。十二単−−実際には、十八枚や二十枚も着ていたようで、十二は大変多いという意味である−−は、男にとって、これほど都合のいい服装はない。と言うのも、十二単は一人では着れないし、二十キロ以上もあるから動きにくいのだが、紐をまったく使っていないので、脱がすのは非常に簡単だからである。われわれはほとんどの場合、男と話して知的刺激を受けることが、彼らのコミュニケーション不足に呆れてしまうだけで、なく、良妻賢母主義を非難するものの、「或る一部の放縦なる女文士」に積極的な意義を読みとるフェミニストからも同じ印象を受けるが、最も知性を活性化する会話は創意工夫の中で生きている女性との間で行われたものである。これ以上言うと、小さな町に住む善良な主婦から新聞に投書されてしまうので、われわれはそろそろ黙らねばなるまい。

 最初の言葉も最後の言葉もない。対話のコンテクストには果てがない。それは無限の過去と無限の未来へと広がっている。どんなに遠い過去の対話から生まれた意味も、最終的・決定的に捉えることはできない。なぜならそれはその後の対話の中でたえず更新されてゆくからである。対話のどの瞬間をとってみても、そこには忘れられた意味の膨大な集積があるが、それはその後の対話のどこかの時点で思い出され、新しい生命をあたえられる。なぜなら、絶対的な死というものはありえない。どんな意味にもいつの日かかならずや帰還の祝祭がある。

(カテリーナ・クラーク=マイケル・ホルクイスト『ミハイール・バフチーンの世界』)

 言うまでもなく、彼女たち以上に、知性と品格に欠けた男どもを非難しなければならないが、ただ奴らの行動や考えが、女性に関することに限らず、あまりにも常識的すぎるほど馬鹿らしいので、ここで言及するつもりはない。われわれは、性差別主義者の糾弾を叫ぶ彼女たちに、トマス・ペインの『常識』を読むことを勧めよう。確か、それは、「代表なくして課税なし」の論理に基づき、王政の本国との現行の関係を断ち、植民地は独立の共和国となるべきだと訴え、アメリカ独立戦争への世論を盛りあげた作品だった。だが、それでも納得できないようであれば、性差別主義者を指さしながら、彼女たちに次のように広沢虎造のごとくダミ声をあげねばなるまい。「馬鹿は死ななきゃあ、治らない」。

 世有伯楽、然後有千里馬。

 千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、恥於奴隷人之手、柢駢死於槽木歴之間、不以千里称也。

 馬千里之者、一食或尽粟一石。食馬者、不知其能千里而食也。是馬也、雖有千里之能、食不飽力不足、才美不外見。且欲与常馬等不可得。安求其能千里也。

 策之不以其道。食之不能尽其材。鳴之而不能通其意。執策而臨之曰、「天下無馬。」鳴乎、其真無馬邪、其真不知馬也。

(韓愈『雑説』)

 われわれは、ただたんに、戦後の東西冷戦や中ソ対立など具体的な国際政治環境などに直接的かつ詳細に触れて、湛山を論じるつもりはない。湛山は、確かに、具体的な政治・経済問題に数多くの提言をしてきた。だが、湛山の考えのほとんどは無視されてきたのである。この事態から湛山を迫害された予言者にしてはなるまい。そういう視点から政治家について書くのであれば、湛山ではなく、三木武夫でも選べばよいのである。安吾も、湛山と同様、こうした問題に関して鋭い考察をしているが、やはり黙殺されており、彼らは「すべては、相互に前もって交されている約束があって始めて成り立つ世界」の産物である「ニッポン的性格」と根本的に異質なのだ。「ですから、実際のところは、仏というものは仏である、糞掻き棒は糞掻き棒である、というような尋常、マットウな論理の前に出ますというと、このような論理はまるで役に立たないのであります。そして、このような一番当り前の前に出まして、それを根本的に覆すことの出来る力がどんなものだか、どこにあるかと云いますと、それは実践というものと思想というものが合一しておるところにしかないのであります」(安吾『ヨーロッパ的性格ニッポン的性格』)。こういう骨太な読解に耐えうる政治家は湛山だけなのである。湛山の作品の中で最も重要なものは『大日本主義の幻想』と『百年戦争の予想』であろう。前者は具体的な経済政策の提言であり、後者は文化論である。『大日本主義の幻想』に関しては研究者や政治批評家らにもよく言及されるが、『百年戦争の予想』はほとんど無視されている。『百年戦争の予想』は、『大日本主義の幻想』に劣らず、日本の政治家が書いた作品としてだけでなく、近代に入ってから発表された数ある日本文化論の中でも、最高傑作である。『大日本主義の幻想』は、その順序にかかわらず、『百年戦争の予想』の視点が可能にしているのだ。数ある長大な文化論を読むよりも、この湛山の作品の一、二頁を開いたほうが知的刺激になるだけでなく、多くの知識と知恵を獲ることができるのである。

 湛山は、『百年戦争の予想』において、「百年戦争」という言葉の意味を次のように説明している。

 しかし私か、百年戦争の予想などという妙な題を掲げましたのは、必ずしも戦争そのものが百年続くと申すのではありません。昔の英仏戦争も、一三三八年から一四五三年まで、毎日毎日戦争をしていたわけではありません。ただこの間両国は敵対関係を続けておりました。そしてしばしば戦争を繰り返したのであります。いわんや現今の戦争の如く、武器が進歩し、惨禍が広く銃後の民衆にまで及ぶ戦争が百年もの間、毎日間断なく続け得るものではありません。その間には講和の行われることもありましょうし、いろいろ変化があることでありましょう。しかし私は、今日の世界の政治的不安動揺は容易に収まらない、現在の戦争そのものは、近く片付くと致しましても、それで戦争が終ると見られない、かように考えるのであります。百年は無論形容でありますが、その形容に該当するほど、世界の動揺は長く継続する。只今の戦争は畢竟この前の世界大戦の引続きでありますから、既に一九一四年から三十年近く過ぎております。これからなお七十年余り過ぎれば百年で、その位の間、今日の世界のこの混雑が続いたとて、そう長い事ではないかも知れません。

 こういうわけで、今度の戦後には、世界に大変化が現れるだろうとは、多くの人の感ずる所でありますが、それがどんな変化であるかということは、未だ誰にもわかっていないように思われます。それならこれは、いつになったらはっきりいたすか。またいつになったらその変化が成し遂げられるか。百年戦争と申すのは、前にも述べた通り、必ずしも戦争が百年続くというのではありませんで、実はこの戦後の変化が、百年もかからないと完成しないだろうという意味であります。即ちこの前の世界戦争以来始まった政治的経済的の変化は、非常に大きな動きでありまして、一朝一夕には安定しない。今度の戦争を経ても、おそらくまだ駄目である。かように考えるのであります。従ってこれが安定するまでには、また戦争も起るかも知れない。しかし戦争が起る起らぬにかかわらず、とにかく、世界の政治経済は動揺を続けると見なければならない。これが私の申す百年戦争であります。

 湛山は、「独立の個人の自由な考えとか、観察方法」に基づき、「個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いて」(『ヨーロッパ的性格ニッポン的性格』)いる。湛山は、先に述べた通り、大袈裟な言葉を好まない。彼が「百年戦争」といういささか大仰な概念を用いるのは異例である。これは決して、安吾が批判する「何時でも、もっと一般的な、嘘があってもかまわぬから一般的でさえあればいいというような調子がお得意な」政治家らが濫用するはったりではなく、ある区分を意味している。「百年戦争」は百年間、毎日、戦争をしている状態を指すのではなく、ある問題系を土台にして「世界の政治経済は動揺を続ける」ということである。激しい戦争が、ある一定期間、続いた後、その戦争がもたらす問題系が持続したまま、世界は小康状態に転ずるものの、百年かからないとその動揺は安定しないのだ。この問題系はヘーゲルの理念の自己発展という形態をとらない。言うまでもなく、「予想」はあくまで「予想」であって、ジョン・ムースが、合理的な経済主体の「予想は、未来の出来事の情報を駆使した予測であるから、適切な経済理論に基づく予測は本質的に一致する」、と新古典派の一種、シカゴ学派の「合理的予想形成」を支持したけれども、この言い回しなど−−特に、「適切な経済理論」のあたりが−−ほとんど井崎脩五郎の使うものと同じであろう。湛山のこの理論は、彼がこれをシンポジウム「近代の超克」より一年前の一九四一年七月時点で書いている点を考慮すると、驚異的である。湛山はジョージ・スタイナーの理論を先行している。ジョージ・スタイナーは、『文化論』において、十九世紀を一八一五年から一九一四年までと区分し、その前にフランス革命以降のシュトルム・ウント・ドランクと呼ばれる激動の三十年間があり、それ以後の百年間は相対的に安定しているという循環的歴史観を提示している。ジョージ・スタイナーによれば、一九一五年から後の三十年間激動期があり、百年は相対的な安定期に入るだろうというわけだ。これは自由主義のもたらすものなのである。

 湛山は、かの皇帝に「世界精神」を見たヘーゲルと同様に、ナポレオン戦争を参考にし、第一次世界大戦後、世界経済は一時的に混乱するものの、また世界秩序は元に戻って安定すると予測していた。しかし、それは、彼自身認めているように、的中しなかったのである。この「百年戦争」の問題系は官僚主義なのだ。湛山は官僚主義という概念を、ある歴史的区分に、限定して使っている。ナポレオンの登場は官僚主義の発達に重要な契機になったが、彼自身は官僚ではない。ナポレオンとフランス革命はヨーロッパの支配地域にナショナリズムを勃興させ、官僚主義を用意したのであって、それに属しているわけではないのである。ナショナリズムは、近代国家形成の際、官僚主義を派生し、帝国主義を招く。ナショナリズム・帝国主義・官僚主義の三つの概念は中央集権的同一化という言葉でつながるのである。ナポレオンの「百年戦争」は近代国家形成であり、その次の「百年戦争」は帝国主義を土台にしている。十九世紀後半の帝国主義的支配とそれ以前のものとは違う。帝国主義は支配地域にゆるやかな統合に基づく自治ではなく、同化を迫り出す。ナポオンのもたらした政治・経済体制を押し戻すために、メッテルニッヒの提唱したウィーン体制は産業資本主義の台頭によって崩壊し、自由主義とナショナリズムが起こり、今までになかった帝国主義がヨーロッパ諸国の間で支配的になった。ウィーン体制は、市場化を期待するイギリスの思惑によるラテン・アメリカ諸国の独立などが原因となって、ヨーロッパの外から崩れていったのである。Esperanto naskighis en 1887.

 帝国主義は、元来は、大英帝国の行政問題に関して使われていた概念である。一九世紀半ば、植民地の問題について冷淡な世論や自由党内閣の無関心に対して抗議する人々、すなわち本国の植民地主義者および植民地官僚は「帝国主義者」を自称していた。一八八〇年代以降になると、植民地の獲得・支配・依存がイギリスだけの特別な現象ではなくなったため、広く用いられるようになった。Ba asia khosh amaded.

 インドのボンベイに生まれたラドヤード・キップリングはヨーロッパ人が世界各地に出かけ、文明化することが「白人の重荷」だと次のように書いている。

白人の重荷をになえ−−

 平和のための野蛮な戦いで−−

飢えたる者の口を満たし

 病める者を死なしめよ

行って生ける者と戦い

 死者をもってそこを飾れ!

白人に重荷をになえ−−

 古き報いを受けよ

汝が奉仕せし者の責めと

 汝が守りし者の憎しみを−−

 帝国主義を支えるのは産業資本以上に、むしろ、金融資本・証券資本である。産業革命によって起こった新たな産業を支える貴金属・石油・ゴムを求めて、「白人」は東南アジアやアフリカへ植民地を獲得し始めた。彼らは植民地で、不当に安い労働力を基盤にして、新たな企業を創業・経営した。この企業家・投資家は所有権を安全に保護されるようにと本国政府の積極的介入・支配を要求した。特に、こうした有利な投資と新しい利益の獲得に眼をつけたのは、かつてないほどに力を持ち始めていた金融資本だった。モルガン商会やロスチャイルド家といった投資銀行家は利益率が下がる前に、蓄積された余剰の資本のはけ口として植民地を求めた。一八七〇年代までは、余剰の投資力を蓄積していたのはイギリスだけだった。イギリスはヨーロッパ各国・アメリカの産業ら投資していたが、一八七〇年代以降になるとそれらの国も資本輸出国へと転換した。帝国主義は商品の輸出にとどまらず、過去の植民地主義と違い、この資本そのものの輸出によっても特徴づけられる。破産状態にあったエジプトやイラン、中国の政府は、自らの失政を顧みることなしに、帝国主義的な資本の供給を受け入れ、傀儡政権なっていった。Avinun.

 サマセット・モームは、『大官』の中で、清朝末期の官僚について次のように批判している。

 腐敗していて、無能で、おまけに破廉恥の彼は、やりたい放題のことをやってきた。賄賂とりの名人で、いかなるいまわしい手段をもためらわず、大きな身代をつくりあげたのだ。不正直で、残忍で、執念深く、そして金銭ずくの人間だった。これほどまじめくさって慨嘆している絶望の窮地に中国をおとしいれるのに、彼こそ重要な責任があるのだ。

 ジュゼッペ・フォルトゥニオ・フランチェスコ・ヴェルディの『アイーダ』がカイロのオペラ・ハウスで初演されたのは、このような時代の象徴的出来事だった。ルドルフ・ヒルファーディングが、一九一〇年、『金融資本ー資本主義の最新の発展についての一研究』を発表しているように、二〇世紀はこうした証券会社・保険会社・銀行といった金融資本の地からが非常に強い時代である。そして、二一世紀は通信資本・情報資本の時代となるだろう。モルガン商会は、共産主義抑制のためにと、ムッソリーニ政権に多額の融資をしていた。金融資本が動かなければ、世界は身動きがとれない。欧米の戦争が世界大戦になる背景がこのように整っていった。

 金融資本が十分に発達していないイタリアやドイツ、日本、ロシアも植民地獲得に乗り出しているように、資本の輸出と帝国主義的発展を同一視することは、必ずしも、できない。ただ巨大銀行の発達と銀行資本による産業の支配という帝国主義の特徴は、日露戦争後に、ドイツにおいて典型的に表われた。帝国主義にはナショナリズムが入りこんでいるのだ。一八七〇年代以降になると、ヨーロッパ・アメリカにおいて、保護関税政策が頻繁にとられた。ナショナリズムは保護関税の姿をとって表面化したのである。帝国主義の時代には、経済生活の領域もナショナリズムの原理によって貫かれるようになったのだ。ナショナリズムはこうして国民に浸透していく。

あっちもこっちも

ひとさわぎおこして

いっぱい呑みたいなやつらばかりだ

     羊歯の葉と雲

        世界はそんなにつめたく暗い

けれどもまもなく

そういうやつらは

ひとりで腐って

ひとりで雨に流される

あとはしんとした青い羊歯ばかり

そしてそれが人間の石炭紀であったと

どこかの透明な地質学者が記録するであろう

(宮沢賢治『政治家』)

 近代国家形成するには、貴族制や王政、教会権力は解体され、あるいは無力化しなければならない。身分的階層の代わりに、官僚が国家運営の担い手となった。官僚は身分や階級にかかわらず国家から、試験を通じて、採用された役人であり、その地位は国家に対する実績によってのみ決定される。どんなに裕福で、古くから続く名家の出身であっても、その職務遂行能力が相対的に劣っていれば、出世はできないし、場合によっては、辞めなければならない。官僚制の萌芽は絶対主義の時代に遡る。官僚制は、常備軍とともに、君主による集権的統治の重要な支柱である。しかし、この時点では、身分制が強く、王に対してだけ責任を持つにすぎなかった。官僚制が真に威力を発揮するのは近代国家体制である。官僚制は既存の諸階級や諸生産様式に所属している集団秩序を破壊し、均質的な近代的秩序を形成する。官僚は近代国家の構成員を組織するのである。常備軍も官僚制どの一種である。軍隊内の階級は身分制イデオロギーではなく、専門的教育と実戦での功績によって決定される。近代国家以前の軍隊は傭兵であり、彼らは契約によって、金によって雇主と結びついているにすぎない。常備軍は、他国に対する防衛と抵抗の目的で、徴兵制によって組織される。軍隊は、湛山が経験として語っているように、自分が近代国家の構成員であることを覚えこませる機関である。自分の国を守るのは自分自身なのだという自覚を促す。国家は兵士に自分自身の同一性・連続性を忠誠心というもので現すことを要求するのである。入隊は近代国家人になる通過儀礼なのだ。「これはぼくの考えですが、戦争でたくさんの人が戦死すると、だれがだれだかわけがわからなくなるので、名前のわからない死人の骨は家へおくりかえすことができなくなるので、そういう骨をそまつにすると、兵隊にとられたとき、名前のわからないような死に方をしたときなにもしてもらえないと、兵隊になり手がへってしまう。兵隊のなり手がいないと戦争に負けるので、戦争に負けたくないために『無名戦士の墓』を大事にする。いくら大事にされても兵隊にとられて死ぬのはいやな人もあるので、なりたい人だけ兵隊にすればいいので、なりたい人がすくなすぎれば、戦争をしなければだれも戦死しなくなるので、それなら『無名戦士の墓』もいらなくなって、パリの名所がひとつへることになる」(山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』)。このような背景を持つ近代国家は男のためにあり、女は主役ではない。こうした発想が受け入れられたのは、ある歴史的・社会的状況の変化があったのである。絶対主義を迎えると、支配的経済原理は重金主義政策から重商主義政策へと移行した。スペイン・ポルトガルは官僚・軍隊・宮廷貴族への給与として多量の貨幣や貴金属を獲得する必要に迫られ、宮廷は世界各地で征服・略奪を推進したのである。十七世紀以降、オランダ・イギリス・フランスでは、その代わりに、多く輸出し、少なく輸入することによって国家財政を黒字にする貿易差額主義に基づいた政策をとるようになった。宮廷が特権的大商人に独占権を与えて経営をまかせ、収益の分配を受けたのだ。王はその目的に合致するかぎりにおいて、高い関税をかけるなどして、国内産業を保護したのである。それは王や国家の商業資本偏重の保護統制であったことから、産業資本の反発を招いた。しかし、イギリス市民革命以後も、産業資本がまだ未発達であったため、それは保護する目的で、重商主義政策は続けられた。自然法観念が強い、自由主義経済学はそれと対立し、一方、関税同盟の結成とドイツ統一に努力したリストは、官僚主義を擁護し、経済的に発展途上にある国家の進展を図る国民経済学・保護貿易主義を主張したのである。ドイツでは、資本主義経済急速な育成を強行したため、労働者は厳しい搾取に対して強く反発した。「私の受けてきたプロイセン的教育は、いかなる場合でも国家に対する不忠を許さず、つねに国家秩序の保持を要求する」と晩年になっても『回想録』て断言するオットー・フォン・ビスマルクは、労働運動を弾圧する一方で、疾病保険法(一八八三)に始まる社会保険制度を確立するなど貧者救済を実施する、いわゆる「アメとムチ」政策を行ったのである。他方、イギリスは、一六〇一年にエリザベス救貧法を施行したものの、近代的社会保険制度である国民保険法が制定したのは一九一一年とドイツに遅れをとった。ワイマール文化を代表する週刊誌『世界舞台』の編集長で、反戦平和運動を指導してノーベル平和賞に輝いたカール・フォン・オシエツキーでさえ、もともとは官吏志望だったのだから、ドイツにおける官僚制の強固さには驚かざるをえない。

 ヘーゲルは、『法の哲学』において、「官庁組織」を次のように説明している。

 統治権において問題になる主要な点は、職務の分割である。つまり統治権は、普遍的なものから特殊的なものや個別的なものへの移行にとりくむのであって、その職務は種々の部門に従って分割されなければならない。だがむずかしい点は、これらの部門が上部に向かっても下部に向かってもふたたび一点に集まるようにすることである。というのは、たとえば福祉行政権と司法権とは分岐するが、何かある仕事においては、やはりふたたび合致するものであるからである。

 ヘーゲルはたんなる縦割りのハイアラーキーとして官僚制度を考えていないが、その組織が「一点に集まる」階級に基づいていることを前提にしている。官僚主義は中央集権的で膨脹主義をとる。帝国主義はこの官僚制によって可能になった。資本主義の発達は資本の集中と独占を招き、金融資本が産業資本に対して優位になったのである。限りない利潤の追及は、商品輸出よりも資本輸出を盛んにし、市場・労働力・資源を持つ地域が、一国の植民地・従属国になっていったのだ。この資本拡大は国家の予算を拡大する。ここで官僚主義は膨脹主義で軍国主義への傾向が強い帝国主義と利害が一致するのである。ナポレオンを駆逐したイギリスは、大陸諸国と違って、政治主導ではなく、経済が先行していた。イギリスの自由貿易主義運動は政治を変動させ、選挙法の改正や奴隷制の廃止なども引き起こしたのだ。イギリスの植民地政策は、スペイン・ポルトガルのそれが中央集権的であったのに対して、アダム・スミスの思想に基づき、地方分権的であった。その土壌から植民地文学が多数生まれたのである。早期に帝国主義化した英・仏に対して、遅れて急激に帝国主義化した独・米・露・日などが植民地獲得に乗り出した。一九〇〇年ごろから、植民地再分割の段階に入り、帝国主義列強間の衝突が勃発したのである。第一次世界大戦は、確かに、帝国主義戦争であった。

 ヘーゲルの官僚制擁護に対して、産業革命が発想の前提だったマルクスは、初期から、否定的である。ヘーゲルの「市民社会」から「国家」への「包摂」において、具体的機能は行政権に属している。国家行政が官庁の分業組織を不可避的とすることから、「中間身分」である「官吏」による政治、すなわち官僚制をヘーゲルは説く。ヘーゲルは、マルクスの『ヘーゲル国法論批判』によると、「官吏の属する中間身分には、国家の意識および最も卓越した教養が存在している。したがってこの中間身分は、また合法性と知性とについて国家の基柱をなしている」と官僚を美化し、「国家」と「市民社会」とを媒介する重要な役割を官僚制に求めているのだ。

 一方、マルクスは、『ヘーゲル国法論批判』において、官僚制を次のように痛烈に批判する。

 官僚制の普遍的精神は、それ自身の内部では位階秩序によって、外へ向っては閉鎖的な職業団体という性格をもつことによって、保護されている秘密であり神秘である。それゆえ公開的な国家精神も国家心情も、官僚制にとっては、その神秘に対する裏切りのように思われる。したがって権威がその知識の原理であり、権威の神格化がその心情なのである。しかし、彼ら自身の内部では、精神主義は極端な物質主義、受動的な服従の物質主義、権威信仰の物質主義、固定した形式的行為と固定した原則や直観や伝統のメカニズムの物質主義となっている。個々の官吏についていえば、国家目的は彼の私的目的、より高い地位への狂奔立身出世に転化している。

 まだ三〇歳にも満たないジャーナリストのマルクスは完璧に官僚制を把え、それに完全な批判を加えている。官僚制をめぐる多くの凡庸な論文や本よりも、このマルクスの短い批判を読んだほうがはるかに有意義である。ヘーゲルの官僚制擁護は抽象的・観念的な規定にすぎない。官僚制の特徴はトマス・アクィナス流もしくはイエズス会流の「位階秩序」と「閉鎖的な職業団体」であり、これこそがその権力の源泉であるとともに、弊害の原因である。官僚はその「権威」の源を守るためには、よほどのイエスマン以外は納得できないような転倒した詭弁を用い、それが不可能とわかると、相手が国会だろうが、国民だろうが、徹底的に抵抗する。官僚制をめぐる幻想は諸々の「物質主義」や「私的目的」を見ないことから生ずる。マルクスは「社会化された人間」に基づく「民主制」をヘーゲルの君主制に対置する。「ヘーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが、民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。宗教が人間を創るのではなく、人間が宗教を創るのであったように、体制が国民を創るのではなく、国民が体制を創るのである。(略)民主制はあらゆる国家体制の本質であり、社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり、それと他の国家体制の間柄は、類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし、民主制においては類がそれ自身、実存するものとして現われる」(『ヘーゲル国法論批判』)。

 官僚は公務員にのみ適応される概念ではない。「日本の金融スキャンダルは外部の者にとって理解不能に近い」(ブルース・ポリング『だからスキャンダルは面白い』)という点から考えても、官僚制を非難している私的企業体に所属しているものも、多くの場合、官僚なのである。adhi ehen echcheh dhakkaalabala.

 ジョン・ケネス・ガルブレイスは、『満足の文化』において、「官僚」について次のように述べている。

 これまで見てきたように、公的と私的とを問わず、現代の大組織の住人は満足の文化に強く条件づけられている。しかしその実態は複雑である。大組織に属する者全員が「官僚」である。しかしこの用語は、彼らの私的な満足とは相容れない公的分野で働く人々に対してしか使われていない。大組織の住人にとって好ましい役割を担う人々は、国民の下僕としての公務員であり、時には国家の英雄なのである。そして、私的な大組織の側では、「官僚」という呼称を嫌う傾向が強い。官僚とは異なるものであることを示すために、企業が市場に従属していることや、英雄としての企業家像が強調され、因習的な経済学の教義が引用される。あえて繰り返せば、満足の文化が目先の快適さを受動的に受け入れて、現代の大組織と巨大官僚制を支配しているという問題が、真剣に問われてはいないのである。

 産業革命は、湛山の『百年戦争の予想』によると、「物の生産」を激増できるようになったため、それ以前のように「人の欲望を抑制する必要」が減ったことから、「個人の活動の自由を許し得るに至った」。許可することによって、「ますます産業革命を進展し、物質の増産を来すのに必要」であり、ここに「自由主義、資本主義が勃興した背景」がある。産業革命の初期、後に弊害となるが、機械の発明によって、女性や子供を働かせるようになった。それまで女性や子供は、「何の稼ぎもせず、飯だけ食って居る厄介者であった」。そうした意味でも産業革命は歓迎されたのである。鉄鋼などの基幹産業は、国家が介入する巨大資本によって、可能になる。自由主義経済では、重工業を推進することは困難である。重工業を発展させるためには、官僚制が重要な役割を果たす。官僚はナショナリズムを高揚させ、産業資本主義にてこいれして、教育を十分に受けた労働者が就職するようにし、重化学工業を発達させるのである。経済成長率の高さは教育水準の高さに負っている。そうした意味でも、国家が経済に介入しなければならない。

 湛山は、第一次世界大戦後、この自由主義経済の破綻までは考えが及んだが、世界恐慌以降の共産主義や全体主義の台頭など彼には予測のつかぬものだった。共産主義や全体主義も、ブロック経済同様、自由主義経済の失敗のために表われたのである。広範囲に植民地を所持している国はそのブロックを中心とした保護主義的経済政策を採用し、持たない国は、かつて遅れて出発した帝国主義運動を追いかける際に、最も力を発揮した官僚主義をさらに強化した新たな政治体制を希求したのだ。湛山は、保護主義をとらずに、自由主義の失敗を克服しようとした。彼が『大日本主義の幻想』で主張しているのはアダム・スミス以来の国民経済学・自由主義経済学に修正を加えた、「新自由主義」である。湛山にとって、自由主義や民主主義は特定の社会制度と固定的に結びついてはいないし、また、理想状態があるわけではない。アダム・スミスは、国家の役割として、国防・司法・公共事業の三つをあげ、国家は経済活動に介入すべきではないと「小さな政府」を主張した。しかし、自由主義経済は貧富の格差の拡大による社会保障政策の必要性や国家と企業の癒着、恐慌を招き、それらへの対応が政府に求められることになったのである。明治四十年代から、官僚制批判を繰り返している湛山によれば、共産主義も全体主義も統制経済・計画経済に属し、官僚制の一種であって、ヒトラーやムッソリーニ、スターリンも、官僚にほかならないのだ。計画経済や統制経済が成功するとしたら、一国やブロックでは不可能であり、世界全体がその領域に入っていなければならないのである。

 湛山にとって、すでに何度か言及したが、許しがたいのは官僚制である。官僚主義は法治主義に基づいて、法による支配を徹底化する役割がある。だが、この支配形態は法の運用面の判定を第二義的にして実施されているのである。官僚主義は行政権を拡大し、司法権を縮小することを意図する。官僚は特定の結果を導き出すために、組織化を含めて、いかなる行為を行えばよいのかを考えるのである。彼らの始まりは終わりに媒介された一つの目的によって構成されている。始まりは、彼らにとって、終わりと同一なのだ。司法権は、モンテスキューの『法の精神』によれば、立法権や行政権と互いに監視する関係に置かれている。司法権の長を指名するのはその外部の権威である。司法が彼らに有利なようにとりはからうことは、代議制が現在よりも発展途上のころには、よくあった。司法の独立を保持するには代議制が欠かせない。司法は生成し続けるある過程のルールを判定するのである。湛山が政治の世界へ進出することを決意させたものは恐慌たった。自由放任的な経済学では恐慌を前提にしていない。湛山は資本主義的経済が経済だけではなく、政治の介入によって動くことに気がついたのである。

 湛山は、『百年戦争の予想』において、官僚は時代の担当者ではないと次のように述べている。

 今日の統制経済、計画経済において、この資本家企業家に当るものは誰かと考えて見ますと、どうもそれが未だ見当らないのであります。もし現在動いている者の中から、これを探せば、官僚でありましょう。共産主義では、労働者に、これを見いだそうとしたのでありますが、一般労働者に、さような知識も勇気も資力もあるとは見られない。それはデモクラシーにおいて、民衆をかついだのと同じです。ドイツのヒトラー総統もいうているように、民衆というものは無知無力です。故にデモクラシーの名の下に、実際の権力は資本家企業家に帰した。それと同様に、今ソ聯では誰が権力を占めているかと申せば、労働者ではない。スターリン氏らです。これは官僚です。ドイツのヒトラー氏、イタリーのムッソリーニ氏、またやはり官僚にほかありません。我が国でも、しばしば問題になるように、官僚が力を得ております。

 スターリンやヒトラー、ムッソリーニには責任の所在ははっきりしており、官僚主義特有の責任不在とは離れているかに見える。しかし、彼らの場合、政治家を兼任しているために、責任の所在は明確になっているのだ。彼らは王ではなく、さまざまな利害が入りこまないように、他の政党を解散させ、国家における唯一の絶対的な党の代表者であり、国家を官僚制によって運営している以上、官僚の中の官僚である。スターリンのソ連にしても、ヒトラーのドイツにしても、ムッソリーニのイタリアにしても、膨脹主義においては共通している。ファシズムは小国寡民を掲げない。ソ連共産党やナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアの膨脹主義は官僚制がもたらしたものなのである。官僚機構がエステにでもいってダイエットをするとはとても考えられない。ファシズムを批判する目的で、プラトンにまで遡行する企てがある。しかし、ファシズムはたんなる恐怖政治や圧制を意味するのではなく、官僚主義が確立した近代のものである。われわれはスパルタ的軍国主義をファシズムとは呼ばない。ファシズムは具体的な政治体制であって、哲学や理念批判では不十分である。なるほど近代以前にも膨脹主義はあった。けれども、官僚主義以前の膨脹主義は一体化を強制する近代国家ではなく、自治州の連合体を志向していたのである。官僚主義は中央集権化を前提にするが、ファシズムはこの中央集権的膨脹主義の極限にほかならない。Devo andare in bagno.

 官僚制たからこそ、このファシズムを許したのはイタリア国民だけではない。外国を含む勢力がそろってファシズムを支えたのである。軍隊好きのウィンストン・チャーチルは、蔵相時代の一九二七年一月、イタリアを訪問した際、ファシストを「私がイタリア人であったならば、レーニン主義に対する諸君の輝かしい戦いを、終始、心から支持したであろう」と絶賛した。そして、こうした認識は、軍部に近い連中の間では、現在に至っても変わっていないことも付け加えておこう。「すでに述べた二つの重要な要因については認識されてはいなかった。軍部の独立的な権力は、敵の存在とはほとんど無関係である。そして、その権力は自らを増大させる力を持っている。サダム・フセインやマヌエル・ノリエガのようなたいして重要ではない敵でさえ、軍部の権力の延命に役立つのである。湾岸戦争が始まってからは、平和の配当という言葉もほぼ消え失せてしまった。現在、人的資源として軍部に関わっている人々、スターウォーズ計画やステルス爆撃機といった問題含みの兵器開発に関わっている人々が、教育の面でささやかな革命を起こして、荒廃した大都市の救済と平穏の回復の契機となるかもしれない。しかし、軍部の独立的な権力が行く手に立ちはだかり、恐るべき抵抗を示すだろうことも疑いない」(『満足の文化』)。

 メキシコの革命家で大統領にもなったインディオ出身のベニト・ファレスにちなんだベニト・ムッソリーニは、一九一九年、ミラノで退役軍人や参戦主義者ら一五〇名ほど集めて、古代ローマにならい、「ファッシ・ディ・コンパティメント(戦闘団)」を組織した。ファシズムの始まりだった。「ファシオ」は、イタリア語で、束や団結、結束を意味する。一九二一年、戦闘団は国家ファシスト党に改名した。

 ムッソリーニはファシズムについて新聞に次のように書いている。

 ファシストの理論で最も大切なのは国家論である。ファシズムにとって国家は絶対的なものであり、それに対しては個人も集団も相対的なものにすぎない。(略)個人は国家の中においてのみ存在しうるのであり、国家の求めるところに従うべきものである。(略)われわれは、世界で新しき主義を代表しており、民主主義や金権政治の反対を、すなわち一七八九年の理念の反対を代表しているのである。(略)大戦はデモクラシーの世紀を、数と量の世紀を、血の川の中で精算した意味において革命的であった。

 ファシズムは制度の立法者、創設者であるのみならず、精神生活の教育者であり、主唱者である。ファシズムは人間生活の諸形式のみならず、その内容をつくりなおそうとするものである。それは権威と規律とをもって、人間精神を支配しようとする。それゆえにファシズムはその微章として、古代ローマの執政官の権威の標たる束桿を使用し、統一、権力、正義の象徴たらしめるのである。

 頑強だが、小柄だったムッソリーニは威厳を保つのに留意した。自分に関して「笑顔」や「笑った」という字句を新聞からすべて削除させた。ジャーナリストだったムッソリーニは酒も煙草もたしなまず、貴族が大嫌いで、社交界も好まなかった。音楽好きで、ヴァイオリンを得意とし、乗馬、水泳、ハイキング、フェンシングを愛好した。上半身裸になり、隆々の筋肉を見せつけながら演説をしたこともあった。スピード狂の彼は自動車やオートバイ、飛行機も自ら操った。支持者から「統領」と呼ばれたムッソリーニは、ほかの独裁者と違い、メディアが誕生日に言及することを禁止した。老人、特に老婦人が嫌いで、年をとることを忌避していた。朝六時に起床して、軽く体操をした後、オレンジ・エードかグレープ・ジュースを一杯飲んで、乗馬をしてからシャワーを浴び、朝食にした。「私が健康を維持している秘訣は、一にも二にも果物だ。朝食にも昼食にも、それから夜にも果物だ。私は肉は食わない。ときどき魚を食べるだけだ」。

 湛山は、『百年戦争の予想』において、官僚の責任の不在の理由を次のように説明している。

 しかるに、前回に申した官僚には果してさようの責任を負わせ得るかというに、勿論現在我が国などで行われている官吏の制度では、むずかしいと考えます。またドイツやイタリー等で行われている一国一党組織にこの資格があるかと申すに、これまたはなはだ疑問です。

 責任を負わせるのには、繰り返して申す如く、失敗すれば死活に関するのでなければなりません。しかるに経済は計画経済で、政府が総てこれを指図する。その政府は、官吏の寄合世帯で、もし或る仕事に失敗しても、他に転任すれば、咎めもなく済ましていられるという仕組みでは、責任の負い手はない。それで政治も経済も、真剣に運営せられるわけはありません。今日の我が国は現にややさようの観を呈しています。

 また一国一党の場合も同様であります。政治も経済も、一切一党が取り行って、これに対して国十に競争する勢力がないとすれば、党としては、絶対に失敗する危険は、少なくも国内的にはありません。失敗するのは、それ以上に仕事を善くやる者があるからですが、それがなければ失敗はない。しかし失敗の危険がなければ、責任感は稀薄になります。だから特別立派な人が指導者である場合は別として、組織としては一国一党は結局腐敗堕落すること昔の専制政治と異ならぬだろうと考えます。

 官僚の仕事は個人で行われるものではなく、あるシステムの中で、先例にのっとって、一定の命令系統にしたがい、集団で執行される。彼らは固有名詞のない役職や肩書きだけで語られる匿名的存在を望む。この地位は、組織内において、絶対的ではなく、相対的なものである。官僚は情報公開を、責任主体を明らかにしてしまうから、嫌う。日本に責任主体がないと日本の知識人の間で議論されているが、それが不在なのは情報公開をしないからにすぎない。昭和天皇は「戦争責任」について尋ねられた際、「自分は生物学者なので、そういう文学のことはわからない」と答えている。しかし、この言葉ほど日本の官僚制と責任の不在を代弁したものはないだろう。と言うのも、日本の政治家や官僚は、災害や公害の被害者に対して、自らの手を汚すことなく、いつも生物学的解決をとるからである。死ねばすべては終わりだというわけだ。官僚は、先例がないと、風邪薬がきかないのに、家に帰って寝ればいいものを、処方箋にしたがって、車に乗らず悪化させてしまうようなことを平気でするのだ。官僚は絶対的権力を所持してはいない。官僚主義は集団主義である。官僚制の権化であるアドルフ・アイヒマンに関するドキュメンタリー映画『スペシャリスト』が公開されたが、官僚制は(プロフェッショナルとは違って、倫理がともなわない)「スペシャリスト」の体系であろう。アイヒマンは、戦局が悪化し、和平を模索している最中でさえ、上司に「命令」を要求し続けた。すべてを統計学的に把握する性癖のあったこのスペシャリストには、ドイツの勝利以上に、自らの官僚精神を満足させることの方が大切だったのだ。だが、これも戦時中の天皇を含めた日本の上層部と似ている。日本の敗北が決定的になった後でも、彼らは天皇制を維持するためにのみ、戦争を続行したからだ。アイヒマンの言葉は、官僚制にどっぷりと浸りきっている日本人に、あまりにもあてはまる。官僚は責任に問われない状態を望み。予算をより多く獲得して規模を拡大することを目的とする。例えば、軍事に関係する官僚はつねに安全保障の危機をあおる。なぜならば、危機だと言っていて何も起こらなくとも責任は不問だが、安全であると主張していて、かりに軍事的衝突があった場合、責任が問われることになってしまうからである。また、危機がなければ、予算が削減され、規模が縮小されてしまう。小さい政府など官僚にとって敗北以外の何ものでもない。予算の配分の大きさこそが存在意義なのである。「私のような職業は、この世から、なくなったほうがいいにきまっている」(ロバート・キャパ)。Toi kui ong lam.

 湛山は、『行政改革の根本主義』で、日本の官僚制について次のように述べている。

 元来、我が行政組織は、維新革命の勝利者が、いわゆる官僚政治の形において、新社会制度の下において、国民を指導誘掖する建て前の上に発達し来ったものである。であるから、役人畑に育て上げられた官僚が、国民の支配者として、国民の指導者として、国運進展の一切の責任を荷なうという制度に、自然ならざるを得なかった。これ、我が政治が国民の政治でなくて官僚の政治であり、我が役人が国民の公僕でなくて国民の支配者である所以であり、我が行政制度が世界に稀な中央集権主義であり、画一主義である根因である。

 元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後においては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。而して、政治が国民自らの手に帰するとは、一はかくして最もよくその要求を達成し得る政治を行い、一はかくして最もよくその政治を監督し得る意味にほかならない。このためには、政治は出来るだけ地方分権でなくてはならぬ。出来るだけその地方地方の要求に応じ得るものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕を振いつつある最も優秀の人才を自由に行政の中心に立たしめ得る制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令の如き)というが如き行政制度は、根本的改革の必要に迫られざるを得ない。今日の我が国民が真に要求する行政整理は即ちかくの如きものでなければならぬ。

 官僚はある時代的変化に対応するために必要とされる存在であり、それがすぎれば反時代的存在となる。官僚制の問題点は、処理の面では、文章本位の規則主義や先例重視の形式主義、秘密主義であり、また態度の面では、セクショナリズムや縄張り争い、事なかれ主義、責任回避などがある。近代国家建設には官僚の力が欠かせない。官僚制が確立する以前の明治初期の知事は、王が任命する非世襲の州知事で、徴税と治安維持を主な職務としたアケメネス朝ペルシアのサトラップにすぎず、官僚は各州(各自治体)を巡察して王に報告する王の目・王の耳であった。近代国家は官僚主義そのものである。けれども、近代国家が確立してしまった後では、官僚は経済発展には邪魔なだけなのだ。運輸省の同一地域同一運賃政策に異議を唱え、他社との軋轢にも動ぜず、タクシー運賃の値下げをし続けたエムケイグループ会長の青木定雄は「旧ソ連は方法を誤ったものの、共産主義の理想自体は悪くない」と語り、マルクス主義者を自称している。運転手を教育して、サービスを向上し、値下げすれば、乗車率も上り、運転手の収入も増えるというのが彼の持論である。彼や『ナニワ金融道』の青木雄二くらい豪快なマルクス主義者が日本にはもっと必要なのだ。マルクス主義は、先天的に、官僚主義なのではない。ただ、マルクス主義の一つの源泉がヘーゲル主義であるから、官僚主義的傾向へと落ちかねねない危険性を持っているのてある。日本の官僚主義を擁護するためによくあげられる彼らの優秀さはまったく根拠がない。もしかりに彼らが聡明であるならば、すぐさま官僚制を縮小するであろう。官僚の能力ではなく、国際情勢と民間の自然成長が戦後日本の経済発展を可能にしたのである。歴史を超える存在などありはしない。今日の先進国の財政赤字は、言うまでもなく、官僚主義による無駄な支出だけでなく、税金を徴収するのが困難な多国籍企業や法人、外郭団体などの組織体・集合体の増加に基づく不公平税制に有力な原因を持っている。いかなる状況にあっても、税金対策を考案するであろうし、官僚に無駄遣いを指摘しても、彼らは、代理店を通じて、どうせ「そんなにもらってませんよ。今話題のバラエティー番組のパイロット版の制作費程度ですから」とでも答えのである。財政赤字を解消するには、アーサー・ラッファーの描く曲線を権威とせず、小さな政府がその前提である。

 地方の議員を務めたり、産業組合を経営した経験がある湛山は男女を含めた普通選挙の実施や地方分権を主張しているが、『湛山回想』において、アメリカと日本の歴史を比較して、地方自治普及の差異の理由を次のように述べている。

 米国は、何らかの政治的保護もなく、こうばくたる山野に、危険を冒して移住したパイオニヤーによって開かれた国である。彼らには、たよりたくも、たよるべき政府はなかった。彼らの生活の安全と発展とは、彼ら自身の奮励と協力とによるほかはなかった。しかも、この米国の歴史は新しい。合衆国ができてまだ二百年にもならない。パイオニヤーの血は、なお、かれずに、米国人の血管の中に流れているのであろう。米国に自主自治の精神の盛んなるは、このためであると思われる。

 しかるに、日本は米国と異なり、建国が、はなはだ古く、すでに千数百年にわたって、中央集権的政治が行われた。ことに最近数百年は、強固なる封建制度のもとに、国民は、一にも二にも幕府または諸候の命令によって行動を律せられる訓練を受けた。地方には隣保の組織はあったが、これも実は上からの権力で押さえられている機関であった。明治維新後、地方自治制度が設けられたが、それもまた中央政府の分身にすぎず、地方民が、われと、自ら進んで団結協力し、わが政治をしようという精神に発したものではなかった。日本の地方自治が、ふるわないゆえんである。

 アメリカ合衆国は新しく建国された移民の国であり、「政治的保護もなく、こうばくたる山野に、危険を冒して」、アメリカ先住民の住んでいた大陸に渡ってきた移民たち自身が「奮励と協力」で「生活の安全と発展」を獲得していったのに対して、日本は古い国であり、日本の地方民は中央に支配されることになれすぎ、「自ら進んで団結協力し、わが政治をしようという精神に発したもの」を実行することはない。アメリカと違って、日本では、こうした環境のため、地方自治は「ふるわない」のである。中央が命令し、地方はそれを盲信的に追従するだけという状況では、何を行っても、必ず失敗せざるをえない。農業も例外ではない。湛山は、『新農業政策の提唱』において、米麦中心の農業につらなる偏狭な国産奨励イデオロギーを批判し、国際的分業による産業奨励を説いている。明治以後の官僚制の下、何度も同じ種類の農業混乱が起きているのである。こうした混乱は農業に直接かかわる官僚だけではなく、地方民の無気力さを助長した軍や地方自治の官僚にも責任がある。地方分権を望んでいないのは官僚と各地方自治体の関係者の陳情によって潤っている業者くらいであろう。dn yamu.

 湛山は、『湛山回想』において、日本の農業は零細で、工業など他の産業に回せるはずの労働力を過剰に占め、経済発達を疎外しているから、耕地面積を大きくして、人手を減らし、「その結果、あまってくる労力は、工業に向ける処置を講ずるのである。日本の農業の改革は、工業の振興に伴わなければならない」、と指摘している。農業問題は生産性の問題である。農業の対外的に解放政策の中では、当然とも言えるこの説に、『湛山座談』によると、軍部は農家を減らすと、兵隊の質が低下すると反対したのである。農業問題において忘れてはならないのは、農民の意識の改革である。農業は産業であり、商業との密接な関連にある。しかし、日本の農民は、商人と違って、契約を重視せず、先祖伝来の生活の慣習を尊重し、そこから生ずる素朴なパターンを守って、あまり創意工夫を必要とせず、生きていく。商人は、商業取り引きにおける契約は重要であるから、相互の信頼を重んずる。彼らはさまざまな情勢の変化に敏感に反応し、たえず思考していかなければ生き残れないのである。生産性の低さはこの契約を重視しない意識によってもたらされている。農業は天候によって左右されるから、それは仕方のないことだという意見は言い訳にすぎない。しかし、天候によって左右されるのは農業だけでなく、冷夏の一九九三年と水不足の九四年のケースが告げているように、工業も同様である。しかも、工業でさえ天候だけでなくさまざまな要因によって動かされる。産業は生産だけでなく、販売を考慮しなければならない。産業にはすべて思惑というものが入りこむ。農業をしばしば擁護する日本の文学や哲学は日本語の壁によって守られている。輸入が多くなり、それが国産品を淘汰するのは当然である。なぜならば、日本の思想には、欧米のものに比べて、競争力がないからである。この状況を無視したり、憂慮して、自前や土着の思想を唱える発想は保護主義的である。安吾は、戦後すぐに、『地方文化の確立について』において、「農村は祖先伝来の土そのものを母胎とし、土そのものに連綿伝来の血が通っているのは農村の性格であるけれども、伝統と排他性とを混乱せしめてはならぬ。排他性によって守られた伝統は純粋なものではなく、不具者であり奇形なるものであって、正当なる発育を歪め、とどめている。正しい伝統は当然自ら発育すべきものであるに拘らず、排他的な伝統はこの発育をとどめており、日本に於ける農村の伝統的な生活形態とよばれているものは全く排他的性格によって歪められたものであると言わねばならぬ」、と言っている。農村では、「自主的に自分の責任で事を行うということがなく、常に受身で、その結果が『だまされた』とか『だまされるな』ということになるのである」。「今日は最悪だ」というセリフを聞かない日が農村の人にはないとすれば、よほど呪われた人生なのだろうとわれわれは思わざるを得ない。湛山は、『湛山座談』で、戦後の食料不足に関しても、「飢餓的状態というけれども、実際には物はあった。只流通機構がよくない。スムーズな流通がおこなわれない。百姓が握っていてわれわれにくれない。だから着物と交換すればとにかく食うだけはあった。われわれは困りはしなかった。実際に食うに困ったという人はほとんどいないでしょう」と回想している。naam pogalaam.

 湛山は、『敢えて婆心を抜瀝し新内閣に望む』において、「食料問題の解決は自由市場併置によれ」、と次のように提言している。

 問題は量の不足でなくして流通の不円滑、需給調節機能の喪失である。もしこの観察にして大過なしとすれば、食料問題の解決の鍵は、ただ失われたる需給調節の機能を回復し、流通の円滑を図るにある。従来の誤れる政策から、食料問題を不当に深刻ならしめた結果、その解決は、新内閣の一大責務として引き継がれた。しかしその処理は、以上の観点から考えればむしろすこぶる容易であるといえる。

 しからばどうしてその失われた需給調節の機能を回復し、流通の円滑を計るか、それには記者のしばしば説く如く、政府の配給にあわせて、自由市場の取引を認める以外に途はあるまい。

 大正時代の米騒動は、湛山の『騒擾の政治的意義』によると、政府の米の輸出奨励政策が引き起こした。戦時下であるにもかかわらず、輸出を促進したことから、輸入は減少し輸出は増大したため、物質が不足し、通貨が過剰になったため、インフレが発生し、米の小売り価格が高騰したのである。「原料がない、資源がない」(『湛山回想』)ために、日本では戦前も輸出を過度に奨励したことから、国内の生活レベルを向上することに余裕がなくなった。日本は貿易差額主義をとっていたのだ。自由主義経済では資本が移動し、蓄積される。湛山の生きていた時代は、変動相場制である今日とは違い、固定相場制・金本位制がとられていた。湛山は、『湛山回想』において、「真に米価を調節し、消費者にも、農家にも、生活の安定を与えるために」、「一粒の米も生産者の自由にならないというような窮屈なものではない」としながらも、「日本の米ないし麦をも含めた主食の問題は、結局、国家の専売にするよりほかに、その解決策はない」、と主張している。と言うのも、米の問題は「いつも苦しむのは、その値が高くなる折りよりも、むしろ、かえって下がる場合」に起こるからである。

 農業政策では流通に焦点をあてている。日本は零細農家が多く、生産効率が悪い。満州国で統制経済を行っていた経験のある高級官僚が中心となって、第二次世界大戦期に、日中戦争の全面化にともない、総力戦のために、国内体制再編を推進した。岸信介や奥村喜和男、星野直樹、迫水久常らが、企画院において、国家的な統制機構の確立を企てた。企画院には、国家社会主義的性格から、共産主義的思想の持ち主も加担し、戦時統制強化を押し進めた。一九三九年、米穀配給統制法を制定し、それは、四二年に、食料管理法へと発展し、その後、米麦などの流通全量を政府か一元的に集荷・買い入れ・売り渡しを行う食料管理制度として現在に至っている。それは零細農家を保護している。戦時下、農民の不満をそらす目的があった。農業を保護しているにもかかわらず、その自給率が下がっているのは、工業部門の生産性の上昇率が、農業部門のそれをはるかに上回っていることから生じた産業構造の急激な変化の結果である。

 湛山は、『湛山回想』において、真の日本の独立は経済の独立であると次のように述べている。

 日本を真に独立国たらしめるためには、経済の独立を図らなければならぬ。それには第一に日本独自の経済政策を立てることが必要だ。もちろん、それは国際通商を排除する意味ではない。過去数十年、私が不断に叫んで来たように、日本は自由貿易によって最も利益する国である。したがって、われわれは声を大にして、世界に向かい、国際通称の自由を求め、これを妨げる一切の生涯を撤去することに努力しなければならない。

 日本では、明治以降、独立は政治的独立だと見なされているが、それはあくまでも理念にすぎない。日本は、開国後、欧米との間で結んだ半植民地的不平等条約にしばらく縛られていたが、その一つは関税自主権がなかったことである。真の独立は、多くの第三世界諸国が独立宣言はしたものの、依然としてかつての支配国を中心にした欧米諸国からの経済支援に依存してしまい、そのために、さまざまな面で干渉が絶えないように、経済の独立なのだ。経済的独立は、この場合、自国内ですべてを自給自足することではない。それは国際通商を対等に行える経済力を持つことなのだ。香港のように、経済的にはほぼ独立しているにもかかわらず、政治的独立が達成されていない地域もあるが、経済的独立に先行する政治的独立の要求は、きなくさい軍事力がからんでくるように、多くの場合、ナショナリスティックなルサンチマンにすぎないのである。この排他的支配欲は威圧的行動をともなう。ところが、大日本主義は「日本独自の経済政策を立てること」などなく、経済的独立を目指すことなかった。「日本は自由貿易によって最も利益する国である」にもかかわらず、戦前の日本の支配者層はただ「国際通商を排除」しただけである。「名目だけの仁政を借りよそおい、実際には権勢で政治を行うものは覇者である。覇者は必ず大国を有して、その威力で人民を服せしめる」(『孟子』)。

 湛山は、『湛山回想』において、敗戦後、次のように述べている。

 今日の日本国民は再び臥薪嘗胆、富国(強兵は、あえていう必要なきも)を標語とし、何をおいても経済力の増進に奨励すべきである。富国なれば、もし要すれば、いかなる強兵も養うことが出来る。これに反して、いかなる強兵も、貧国においては用をなさない。それは太平洋戦争の経験が明らかに示した。

 あるいはいう、富国は資本主義の標語である。今日においては、富の分配こそ、最も大切であると。しかり、経済の目的は民生を豊かにするにある。分配大いに語るべし。しかし貧は、これを分配しても、また貧である。民生は、分配しうる富が豊かにして、初めて豊かなるをえる。まず生産を起さずして、何を、われわれは消費し得よう。

 また、あるいはいう、日本には原料がない、資源がない、外国に依頼せずして、いかにして経済をいとなむかと。目を開いて見よ。何をもって、日本に原料なく、資源なしと説くか。早い話が、数百万キロの水力電気は、われわれの開発の一日も早きことを待っているではないか。しかも水力電気のためには、日本は、ほとんど一物も外国からの輸入を必要とするものはない。戦前における満州及び朝鮮の大発電所は、一切を日本の資材と技術とで建設したのである。今日においても、その資材と技術とは、用いられることを待っているのである。

 しかるに日本には、今、資金がないから、せっかく豊富な水力電気を、しかも物も人もありながら、開発ができぬという。そして、いたずらに外国資本の輸入を望み、騒いでいる。

 外国資本も、むろん、やがては大いに輸入される時機が来よう。しかし今日の世界、ことに東洋の情勢で、長期多額の外国資本が、にわかに日本に呼びよせ得られようとは想像されない。私は、かような人頼みは速かにやめ、即刻日本国内で資金を作り、大規模の電力開発に着手せよと勧告する。

 外国で資金を借りなければならないのは、外国から物を買って来なければならない場合のことである。国内の物と人とでやれる仕事に、外国の資金は要しない。資金は、まず国債の発行によって作るべく、同時に国民の蓄積を大いに奨励する策を講ずべきだ。開発に要する物質の生産に歩度を合わせ、そして二年あるいは三年後のある時期には、これこれの電力が発生し、これこれに、これを利用しうるというそろばんを立てて行う資本投下に、たとい、その一部を通貨の増発にまつとしても、いわゆるインフレの発生する懸念はない。日本に原料がないから、そのためには、まず輸出を盛んにしなければならぬ。したがって日本では、なんでも、かでも通過引締めの政策を取らなければならぬとする説は、日本の資源の開発をはばみ、永久に日本を、その日暮しの貧乏国にしておけということに外ならない。

 敗戦後の日本に欠けているのは資本であるが、それを外国が流入できる可能性は低いから、自ら創意工夫しようではないかと、マーシャル・プラン以前に、湛山は提言している。国債を発行して資金を調達し、公共事業によって経済的安定を図るという政策はケインズの近代経済学に基づいている。日本経済は、戦後、この政策によって発展してきた。日本においては、公債は私人の所有する額は少なく、大部分は銀行などが持っていて、その利息を預貯金の利子の支払いにあてている。一般の民間企業は公債の代わりに、土地を担保にして資金を調達するという方法を用いたのである。湛山は、『大日本主義の幻想』において、「資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるのは愚であろう。牡丹餅さえ沢山に出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう。而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営の代りに学校を建て、軍艦の代りに工場を設くるに在る。陸海軍経費約八億円、仮にその半分を年々平和事業に投ずるとせよ。日本の産業は、幾年ならずして、全くその面目を一変するであろう」、と言っている。資本を発展させれば、その投資を燐国も求める。こうした経済政策を提案する湛山は、戦後長い間、合衆国の政府やマスコミ関係者から否定的に見られていたのだから、合衆国が自由主義とは名ばかりで、ブロック経済主義だったことははっきりしているだろう。

 湛山が経済に関心を持ち始めたのは昭和二年の恐慌がきっかけである。湛山にとっての経済学は恐慌をめぐる理論なのだ。アダム・スミスの古典派経済学は、今日において、そのままでは通じない。アルフレッド・マーシャルは古典派・新古典派に対して人間の欲望には限界があると限界効用学説を唱えた。確かに、今では、限界革命の最大の担い手はレオン・ワルラス──他にも、ウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズやカール・メンガー──と見なされ、マーシャルは限界効用学派に含まれないという見解もあるが、ここでは、ケインズ以前、最も影響力があったマーシャルにそれを代表させる。安吾は、『戦争論』において、「カゴや馬や人力車の時代までは、その全力をもって走ることが許されたが、自動車の時代に至って、速力に制限を受けざるを得なかった。その全力がもたらす効能よりも、制限がもたらす効能の方がより大であり、文明にかなっているからである」、と言っている。限界効用学説の出現はこのような状況から生まれた。けれども、最低速度の制限だけを設けたアウトバーンをつくったドイツはケインズ主義を採用し、限界効用学説を斥けた。限界効用学説は、生物学的には、限界がある。なるほどホモ・サピエンス以外の生物は満腹になってからも食物を摂取しようとはしない。だが、ホモ・サピエンスは大脳が食欲に大きな影響を与えているため、限界を超えても食欲が満たされないことがありうる。血糖値の上昇以上に、大脳からアルファ波が放出されるならば、人間は満腹にはならない。人間はアルファ波の出るスピードよりも血糖値が上がると満腹ではなくても食欲がなくなることから、それを利用して、逆に、食物の摂取量を抑制することができる。肉食動物や草食動物は、雑食なホモ・サピエンスとは違って、こうした乖離がない。ダイエットには禁物であるはずの甘いものを効果的に食事に導入すると、血糖値の上昇による満腹感が食物摂取を抑さえて、むしろ、痩せられることもありうるのである。限界効用学説は、こうした生理学的経済学のメカニズムを利用しなければ、十分に機能しない。「肉体と生理学に出発点をとること。なぜか?−−私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(「霊魂」や「生命力」ではなく)ということを同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである」(ニーチェ『力への意志』四九二)。湛山は赤字歳出を許さず、単一為替レートの設定などを政府に守らせた施策であるドッジ・ラインを消極的と批判している。ケインズ主義は、それを具体化したマーシャル・プランの後、矛盾を露呈した。マーシャル・プランという計画経済は欧米では成功を治めたのである。戦後のヨーロッパでは、経済の問題は資本が不足していただけであったから、資本が提供さえすれば、経済的発展が見こめていたのだ。バタイユは、『呪われた部分』の中で、マーシャル・プランを「普遍的経済学」によって意味づけしている。バタイユは、戦後の世界資本主義は利潤追及が「神の見えざる手」によって自動的に均衡するという古典派経済学に対して、合衆国の一方的な消費によって機能していると指摘するのだ。

 さらに、バタイユはマーシャル・プランを次のように解説している。

 ところでかくも大きな不均衡は現代世界においていかなる意味を有するか? 合衆国はこの問題に直面した。利潤の原則が、すなわち盲滅法にそれを維持することが必要だった。だがその場合には必然的に訪れる状況の諸結果を耐え忍ばねばならない(世界の残余の部分を憎しみに委ねるアメリカの運命を想像することはたやすい)。しからずんば資本主義世界がその上に築かれている法則を放棄せねばならない。無料で商品を譲り渡す必要がある。すなわち労働の産物を与えることが必要だ。

 マーシャル計画はこの問題の解決策である。それなしに世界の発熱が高まるように思える産物をヨーロッパへ移すためのこれが唯一の手段である。

 バタイユはヨーロッパ大陸哲学志向の理論家や消費を重視する批評家たちによく論じられるが、彼の「普遍経済学」はケインズ主義の一変種にすぎないのである。古典派および新古典派によれば、個々人の利益追及が自動的に均衡状態をつくりだすという市場メカニズムの働きを妨害している要因、すなわちマルクス主義的な労働力という商品や独占・労働組合を排除すれば、市場は健全に機能する。ケインズはこの原理を批判したのである。しかし、発展途上国では、工業技術や経験、ルール、効率的な行政、輸送ルートなどが用意されておらず、資本を提供しても、無駄になったのだ。資本を提供する環境が整っていなければ、ケインズ主義は機能しないのである。湛山が日本にケインズ主義的政策を提言するのは、これらの条件を満たす環境が整っている、もしくはその潜在性があるからなのだ。さらに、ケインズ主義は失業と不況には有効であるけれども、インフレの対応策にはならない。ケインズ主義の目的は、市場制度に手をつけずに、伝統的な資本主義の理念を維持して、失業問題を解消することにある。ケインズ主義は不対称な結果を招くのだ。すなわち、それは自動車はあふれているのに、住宅は不足しているとか、煙草の広告や自動販売機は氾濫しているのに、健康に関する配慮や福祉が貧しいという状態である。われわれは緊縮生活を送っていると金が入ってこなくて、かと言って、積極にすると金は確かに入ってくるが、突発的に出費がかさむ出来事が起こり、消えてしまうという不幸の星の下に生まれているのだから話にならない。ケインズ主義は巨額の支出を政府に強いる一方で、福祉や貧しい人々への支出を不健全と減らす傾向にある。「普遍経済学」は普遍どころか、先進国にのみ適応できる経済学にすぎない。「一人を殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄だ」(チャーリー・チャップリン『殺人狂時代』)。A-pa kha-bar.

 湛山はケインズ主義的金融・財政政策を示すものの、よくよく彼の話を聞いてみると、それから離れた独自の理論を語っていることにわれわれは気づかざるを得ない。「大日本主義、即ち日本本土以外に、領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策」は、「経済上、軍事上、価値なきこと」である。「即ち貿易上の数字で見る限り、米国は、朝鮮・台湾・関東州を合せたよりも、我に対して、一層大なる経済的利益関係を有し、インド、英国は、それぞれ、朝鮮・台湾・関東州の一地ないしは二地に匹敵しもしくはそれに勝る経済的利益関係を、我と結んでおるのである。もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。もっとも貿易の総額は少ないが、その土地にて産する品物が特に我が工業に、もしくは国民生活上に欠くべからざる肝要の物であり、この点において特殊の経済的利益があるという事もある。しかし幸か、不幸か、朝鮮・台湾・関東州には、かくの如き物はない」。湛山にとってのアジアはブロック経済圏ではなく、日本の自由貿易の相手国である。湛山は素朴な性善説に立脚して、この理論を展開しているわけではない。道徳による政治行動への戒めは、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』が指摘しているように、説得力を欠く。性善説は欲望を助長する経済学を悪と見なすのてある。人間を悪へと堕落させるのは金だというわけだ。性善説を唱えた孟子の少年時代のエピソード、孟母三遷がそれを典型的に物語っている。墓場の側に住んでいたため、孟子が葬式の真似ごとをしているのを見た彼の母は、教育上よくないと判断し、市場の近くに引っ越したが、今度は商人ごっこばかりしているので、再度転居し、学校の付近を選ぶと、彼は熱心に勉強したという。もちろん、今であれば、彼女は孟子を連れて、さらに、ほかへ移ったのではないかと思われるけれども。一方、湛山は欲望を肯定的に把え、それに基づいて道徳を考えている。大日本主義は欲望を抑圧したため、それが倒錯的に表われているのだ。アダム・スミスはもともとは道徳哲学の教授だったが、『道徳感情論』を発表したころから、自由主義経済を主張してはいたけれども、大陸旅行し、ヴォルテールやチュルゴー、ケネーらと交際した後、本格的に、経済学について考え始めた。アタム・スミスは裕福になることは道徳的堕落ではないと主張したのである。湛山の道徳も経済的自由主義が根本にある。従って、経済活動には否定的な大正デモクラシーの理論家・批評家は政治的自由を要求したのであり、彼をその中に入れることはできない。そして、日本語によるものを読書とは認めないと言っていた湛山にすれば、日本語だらけのわれわれのこの作品など言語道断と怒るかもしれないのだ。もはやわれわれは多言語を用いて記述する必要がある。Mi laikin yu.

 湛山は、『大日本主義の幻想』において、日本の植民地政策をめぐる軍事上の問題点について次のように述べている。

 さてしからば我が国は、いずれの場合を予想して軍備を整えておるのであるか。政治家も、軍人も、新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。吾輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。しかしながら吾輩の常にこの点において疑問とするのは、すでに他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるるる虞れのない限り、我が国は軍備を整える必要のないはずだが、いったい何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである。前にはこれを露国だというた。今はこれを米国にしておるらしい。果してしからば、吾輩は更に尋ねたい。米国にせよ、他の国にせよ、もし我が国を侵略するとせば、どこを取ろうとするのかと。思うにこれに対して何人も、彼らが我が日本の本土を奪いに来ると答えはしまい。日本の本土の如きは、ただ遣るというても、誰も貰い手はないであろう。さればもし米国なり、あるいはその他の国なりが、我が国を侵略する虞れがあるとすれば、そはけだし我が海外領土に対してであろう。否、これらの土地さえも、実は、余り問題にはならぬのであって、戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。我が国が支那またはシベリヤを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。米国が支那またはシベリヤに勢力を張ろうとする、我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起れば、起る。而してその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲わるる危険が起る。さればもし我が国にして支那またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない、従ってわが国が他国から侵さるるということも決してない。論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。

 湛山の大正時代の「予想」は、かなり高い確率で、的中している。この湛山の主張から、今日の先の大戦に関するある世代以上の支配的認識がいかに欺瞞で汚らしい自己正当化、あるいは「錯誤行為」(フロイト)にすぎないことがはっきりするだろう。彼らは「この原因と結果とを取り違えておる」のであり、いまだに「大日本主義の幻想」にとらわれているのだ。大日本主義は欧米に対するルサンチマンである。湛山の小日本主義はヒューマニズムやロマン主義、ナショナリズム、エスノセントリズムではない。満州事変に際して、湛山が主催した『満蒙問題座談会』は「武断」か「平和」かという議論に終始し、司会の彼は失望してしまったが、それは満蒙にはそもそも経済的メリットはなく、ただ膨脹するデメリットだけがあると考える彼にとって空しき理念の戯れにすぎないからである。経済的にはデメリットだけしかない大日本主義はヨーロッパ列強が経験的に行っていた政策を理念として受容した植民地主義にすぎない。しかも、日本の最大の貿易相手国アメリカとの摩擦を生み出した。むしろ、朝鮮半島や台湾、満州を自主的に放棄する必要があったのである。そうすれば、彼らも日本と共同的な姿勢を持っただろう。ナショナリズムが盛り上がり、経済的に不利益だけをもたらすにすぎない以上、列強諸国が侵略することはありえない。大日本主義はパラノイア的誇大妄想にすぎないのである。大日本主義のレトリックはほとんどカルトであって、それは、戦時中、集団自決を多く生んだことからも確認できる。大日本主義は、言わば、新興宗教の教義なのだ。「民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』)。

 軍事的膨脹主義が病的であることは認めるとしても、非武装論は、いつも、夢想だと見なされている。この理論は、道徳的な理想を除けば、まったく根拠に乏しいというわけだ。非武装論の中で、カントの永遠平和論が有名であるが、カントよりはるか以前に非戦論を提唱した思想家として古代中国の諸氏百家の一人である墨子があげられる。墨子を祖とする墨家は、非命説によって、宿命を否定し、仁に基づく愛は「別愛」、すなわち差別愛であって、自他の区別なく無差別平等に愛する「兼愛」を唱え、儒家を批判した。明治以降の政党政治は儒家の政治道徳に基づいていたため、後で述べるように、さまざまな弊害を代議制に持ちこんだ。「兼愛」は「利」の相互付与をともなうべきであり、「利」によって倫理が成立するという交利説である。墨子は「礼楽」ではなく、「勤倹節約」を重視し、出自身分にかかわらず、賢者を任用する「尚賢説」を唱えた。非攻説によって、戦争は金がかかり、農地は荒廃し、人が死ぬため、百害あって一利なしの略奪・盗賊的行為であり、蓄積された財貨を破壊するとして否定するが、自衛は認めている。墨家は戦争はどこかが勝てばほかは負けるのであって、麻雀のようなゼロ・サム・ゲームである。誰もが得をするとは限らず、しかも多くは損をする以上、戦争はしてはならない。王が芸術に耽っているため、国家財政が悪化したことから、芸術に否定的であったように、墨家の主張は経済重視であり、これは政治思想を重視した諸氏百家の中では稀有なケースである。墨家は王政を否定してはいないし、議会制などを主張しているわけでもない。だが、葬式は喪に服したりすると、その間、仕事ができなくなり、非経済的であるから、簡略にしなければならぬという墨家の発想は。湛山の明治神宮設立批判と同じ根拠に基づいている。カントも墨子に似た論拠で非武装をさらに徹底化しているのである。ロマン主義から影響を受けていたけれども、カントの永遠平和論はロマン主義のものとは一線を画している。カントは、道徳以上に、経済の視点から説明しているのである。「兵力同盟力金力という三つの力のうち、金力がおそらくもっとも信頼できる戦争道具であろう」(『永遠平和のために』)。ヘーゲルは、『法の哲学』において、その理論を抽象的な主観性にすぎないと批判したが、彼はそれを法や政治からのみ論じているにすぎない。ナポレオンを「世界精神」と崇拝したヘーゲルは官僚制を擁護し、彼の『法の哲学』は官僚制を基盤としているのである。一方、カントは官僚制に否定的であり、湛山と同様、代議政治を肯定している。「つまり代表制でないすべての統治形態は、元来奇形であるが、それは立法者が同一の人格において同時にかれの意志の執行者であることができるからである(これは理性推理において、大前提の普遍が、同時に小前提において特殊をその普遍のうちに包摂することではないのに、この二つを同じと見るように不合理である)」。

 湛山は、『代議政治の論理』において、代議政治について次のように述べている。

 何となれば、なるほど或る社会或る国家に生るることは偶然であるが、この社会を改造することは人間の力にある。また帰化あるいは死によってこれから逃れることも自由である。しからば則ち私が石橋と呼ぶ家族の一員であり、日本と呼ぶ国の一員であることは偶然であったかも知れぬが、それが現在の如き石橋家、現在の如き日本国の一員であることは決して偶然ではない。自由意志の選択である。されば我々は仮令形式的に申し合わせはしないまでも、現在の社会に満足してその制約の下に生活して居る限り、それを社会契約だと言うに、大した差し支えはない。私はこの意味において、社会生活の論理はルソーのいわゆる社会契約なりと見るものである。

 しからばここで政治の意味はよほど明らかとなる。古から政治の形式は種々あった。しかしそのいずれの形式にせよ、論理的にいえば社会契約の結果である。即ち各個人がその形式を、その政治を善しとして承認せる処に成り立てるのである。例えば君主専制政治の如き、その表面から見ると全く人民には権利なしといえども、事実は人民が承認せるから存立し得る、換言すればいかなる政治の形式においても主権は国民全体にあるのである。(略)「代議士を通じて」と言うことこそ代議政治の特徴であるが、「最高の支配権」は、いかなる政体においても「全人民」にある。決して「何処かに存せねばならぬ」ではない。しからばかくの如き意味の政治から、代議なる形式敗かにして発生 して来たか。これは既に私の前論から予想せらるる処の結論であるが、右に述べた「全人民の主権」を最も確実に、最も円滑に働かしむる手段として工夫せられたものにほかならない。あるいは代議政治を以て、君主もしくは貴族から、民衆が主権を奪うたものと言うけれども、私の見解を以てすればそうではない。元来主権は国民全体にあったのである、それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である。

 (略)ここにおいて吾人は代表者代理者の必要を感ずる。而して代表者代理者は、ただに議会に送らるるのみならず、行政府その物がまた直接人民の代表者代理者となった。即ち責任内閣と呼ぶものがそれである。議会に多数を占めた政党が内閣を組織する、ここまで行かぬと代議政治は徹底しない。

 人間はある歴史的・社会的状況の下にたまたま生まれてくるが、この条件の中で、人間にはそれにたんに従属することなく、「改造」する「力」を持っている。この「改造」する方法にはさまざまな可能性があるが、そのうちでも、代議政治は「全人民の主権」を「最も確実に、最も円滑に働かしむる手段として工夫せられたもの」である。湛山の「主権」という概念は投票行為を通じた自分の意思表明を定義づけられていない。いかなる政治体制が維持されていくには、「全人民」か、積極的・消極的を問わず、それに同意していなければならない。湛山の社会契約は政府や国家に対する「全人民」の自然権の信託である。「全人民」は自分が所属する政治体制に対して、自然権を守るために、つねに抵抗権や革命権を有しているというわけだ。湛山はルソーに言及しているが、むしろ、ロックの政治思想に隣接している。先に述べたように、湛山はアングロ・サクソン的経験論を基盤にする。「全人民」は自然権の保護ために統治者をいつでも変更できるという発想であるとすれば、「円滑」であれはあるほどよいのだから、専制政治よりも、選挙に基づく代議政治のほうが好ましい。議員を選挙して、その当選者によって議会を招集するだけでなく、さらに、代表者の代表による責任を持った行政府を構成しなければならない。経験論では、経験をイメージ化ではなく、記号化するから、代議制を記号化する必要があり、責任内閣制はその一つの試みである。責任内閣制をとっていないアメリカでは、大統領を間接選挙で選んでいる。帰納法は、競馬のように、つねに自分自身ではなく、代理人に賭けなければならない。人は、帰納法では、経験に照らし合わせて、「予想」を楽しむのである。従って、代議政治は議会に代議士を送ったことで完結するのではなく、責任内閣制によって徹底化する。

 湛山は、『湛山回想』において、責任内閣制が不徹底だった明治憲法が軍事的膨脹主義を促進したと次のように述べている。

 しかし、もう一度考えなおしてみるに、そもそも、なにゆえに政党は、かような苛烈な政争をせざるを得なかったか、それには、もちろん政党者流の心の問題もあるが、一つは日本の旧憲法が、いわゆる大命の降下によって総理大臣を作る制度であったからである。英国でも、同じく国王の命によって首相が選ばれる。だが、ここでは必ず下院の多数党の首領に向かって、その命が下される不文律が行われている。しかるに日本では、右の憲法は閥族官僚に利用され、彼らの好む者を首相にあげる手段に供された。のみならず軍部は、陸、海軍大臣を現役大、中将に限る制度(一時は予備役にまで拡張されたこともあったが)を悪用し、ほしいままに内閣を倒し、あるいは作る横暴を働いた。ここにおいて政党は、いかに議会に多数を制しても、軍閥官僚の好意を得なければ、政権に近づくことが出来なかった。日本の政党が、民主主義の本道を踏みはずし、軍閥官僚に取り入り、政権以外の政争に、互にうき身をやつしたゆえんであった。日本国を滅ぼさんとしたものは、かくて、その禍根をさぐれば、明治憲法そのものにあったといえる。

 明治憲法はドイツ観念論に影響を受けている。ヘーゲルにとって、イギリスの市民社会は、相互に独立した自我によって形成され、それぞれが利益や欲望を追及するため、家族に見られる自然的人倫を破壊する「欲望の体系」にすぎず、家族と市民社会を止揚した(ゲルマン君主制のような)国家こそが理想なのである。階級を基礎とし、欲望によって人倫が壊されないための統一の段階であり、精神が完全に自由となり、自己自身に環帰する「絶対精神」に達したとき、個人の道徳性は、この国家において、初めて実現される。責任内閣制など、ヘーゲルから見れば、「欲望の体系」に立脚したものにすぎない。首相は、利害や欲望追及の結果、形成された議会の多数派・少数派といった勢力図から選ばれるのではなく、君主による任命でなければならないのである。だが、第一次世界大戦でドイツが敗北した後、皇帝はオランダに亡命し、一九一八年に、ドイツ共和国が成立した。このドイツ革命は、キール軍港の水兵暴動がきっかけだが、社会民主党が軍部・政財界の保守派と通じて主導権を握り、スパルタクス団の武装峰起による暴力革命は孤立し、そのリーダー、カール・リーフクネヒトやローザ・ルクセンブルクらは軍に虐殺され、一九一九年ワイマール共和国が誕生する。

 代議制であるにもかかわらず、明治憲法下の内閣では代表者の代表によって構成されず、その結果がまったく反映されない。こんなものは、歴史的に軍事クーデターの後によく見られるように、軍政の隠れ蓑にすぎないのだ。軍部は、ほとんどの場合、国外に対する国防よりも、国内における自らの影響力を確保するために、いつでも物理的暴力で言語の行為を威嚇する。責任内閣制は立法府の行政府に対する健全な関係を維持するためには不可欠である。「大命の降下によって総理大臣を作る制度」では、行政府の暴走を立法府にはとめられない。ある一部の特定集団の利益を不当に実現するだけなのだ。戦後の憲法下では、責任内閣制と暴力的直接行動をとりうる防衛組織に対して、シビリアン・コントロールが強調されることになるのは、至極、当然のことである。「現在の社会に満足してその制約の下に生活して居る限り」、それを「社会契約」と見なせるとか、いかなる政治体制も維持するのは、「全人民」であるという発想はヘーゲルの『歴史哲学』に対する批判である。

 さらに、湛山は、『代議政治の論理』において、直接民主制や無政府主義を次のように批判している。

 私は、今の代議政治無用論を以て、必ずしも直ちにルソーの脈を引けるものだとは言わぬ。けれどもこの二つの間にはよほど類似した思想が流れておる。即ち極端な個人主義(あるいはむしろ原始的なと言うた方が適当かも知れぬ)これである。彼らは、個人の意志は絶対にそのままで実現せられぬと、意志の自由は妨げられたものの如く解する。けれどもこれは全く人類の生活の事実を諒解せぬから起る誤謬であって、吾人の意志はいかなる場合においても決してそのままに実現し得るものではない。これは個人について見ても、各個人には種々なる欲望がある、その種々なる欲望を個人は決して、そのままことごとく実現するものではない、必ず彼之較量して、その上にいずれか一つまたはいくつかの欲望を実現することになる(この場合表面上捨てられた如く見ゆる欲望も、実は考慮の中に入れられて居ること申すまでもない)、これは個人が生活する場合に是非とも取らねばならぬ必至の方法である。社会においてもまたその通り、民衆各個の意志はあたかも個人心内における種々なる欲望に比すべきもので、社会が生存するためには是非その間に取捨選択を行わねばならぬ。(略)ルソーの言う如き非常に小さな国にしても、また従来の論者の理想とする如き無政府的社会にしても、決して各個人の意志をそのまま実現し得るものではない。やはりそこには取捨選択がある。しからば何故独り代議政治は奴隷政治で、小国または無政府的社会の直接民主政治は奴隷政治でないのであろう。もしその間に多少でも相違があるとすれば、代議士の選出は一年ないし数年に一度しか行われない、その間は、とにかく全権を彼らに托する、これに反して直接民主政治は時々刻々に必要に応じて各個人の意志を発表し、それによって政治を変化し得る、即ちここに時間の違いがある、おそらくこれだけであろう。けれどもこの時間の長短は、決して代議政治と直接民主政治とを区別する根本的のものではない、それはただ便宜から生じたことに過ぎぬ。厳密に言うならば、仮令一分間なりとも、自己の意志を他に依托すれば、依托である。而してかかる依托は、いかなる直接民主政治といえども、前に述べたが如く各個人の意志を総てそのまま実現し難き限り、避け得ない処である。

 議会は「人民の意志」の調整機関である。議会には個々の利害関係・対立がある。官僚にとって、議会は自分たちの立案した政策を承認させる手続きとして、それを民間の利害によって歪曲させる妥協の温床と見ている。ヒトラーやスターリンらが官僚だという指摘は、この意味において、妥当であろう。代議制は公開の「自由討議」による合意を「人民の意志」と決定するが、この合意は暫定的である。代議制を支える参政権は不特定多数で、投票は無記名である必要がある。これによって、その参加者の関係は不透明になる。代議制は不透明な障害が保証しているため、透明さを重視するロマン主義には是認できない。ロマン主義者は相互の関係が無媒介に最も近い直接民主制を提唱するのである。彼らは直接民主制が理想ではあるけれども、現実的には、人口の増加などの理由で、不可能であるから、その理想状態に最も近い体制をしぶしぶ了承しているだけなのだ。一方、湛山はそうした理想状態を設定しない。われわれはつねに思い通りにならないという前提で生きている以上、直接民主制や無政府主義は素朴であると批判している。これは極めて鋭い指摘である。思い通りにならないからと言って、湛山は、街頭でのインタビューの応答のように、「しょせんどんな政治体制でも同じだ」とシニカルに構えることはない。湛山はルソーの「一般意志」を認めないし、プロレタリア独裁をロマン主義的な妄想と断じている。「普通の国」を掲げた政治家の著作の文体は教科書にしたいくらい典型的なロマン主義のものである。それをロマン主義者国木田独歩の『武蔵野』と読み比べてみると、その類似性にわれわれは笑いをこらえきれない。いかなる政治体制も、専制政治でさえも、人民の支持によって成り立っている。問題はその決定機関とその過程にある。代議制は個人主義的自由主義であるから、自由主義者にとって、議会と政府が国家であり、それに超越的な国家は「幻想」なのだ。自由主義は不純さを肯定するし、純粋な自由主義など存在しない。それがつねに自由主義をリスキーにするのである。Эугээр.

 湛山は「自由討議の精神」(『自由の精神の振興』)を重視する。と言うのも、「言論報道の自由は、個人にこそ許さるれ、いやしくも政府の機関、あるいはこれに職を奉ずる者には(その職務に関係する事項である限り)断じて与えらるべきものではない。それは彼らの自由を拘束するのではなく、彼らの位地の重さを認めるからである」(『ドイツの背反は何を訓えるか』)。医者や弁護士、神父、政府関係者など極めて重要な情報を知り得る「位地」には、守秘義務が生じる。もちろん、床屋も「王様の耳はロバの耳」と公言してはならない。言論はつねに自由であるわけではないのである。湛山は、その理由から、言論の自由ではなく、「討議の自由」を主張する。自由は、湛山によれば、「討議」において実現されるのだ。いかなる言説もア・プリオリに自由なのではなく、「討議」を経て自由になるのである。この注意深い言い方は、湛山が自由が恣意性とは別なものたということを考慮していることをわれわれに意識させる。湛山は、「言論の競技における一種の競技家で、自分の領域として、争論術を限ったものであった」(プラトン『ソフィスト』)ソフィストではなく、ソクラテスを支持するのだ。「討議の自由」は、労使関係においても、法的に保証されていなければならない。資本主義では、封建性とは違い、人を身分によって無媒介的に支配したり、所有したりすることはできないので、雇う側と雇われる側は自発的な契約という媒介を通じて関係を構築する。「討議」が自由なら、そこでの言論は自由でなくてはなるまい。「討議の自由」が確保されれば、言論の自由も達成されるのである。戦後になっても、政府や与党勢力、右翼は言論に、馬鹿げた理由や下らない偏見によって、干渉し続けてきた。こうした圧力は、「討議」の場であったはずの戦前の国会が示しているように、代議制を危うくする。代議制には「討議の自由」と分権が不可欠である。Merhaba.

 湛山は、『湛山回想』において、日本の政党政治の歴史を次のように言っている。

 日本が民主主義政治の形態を国是として採用することを明確に定めたのは、明治元年三月の五事の誤誓文であった。これは決してあだおろそかに定めたことではなく、当時の日本は、この方針による外に、国内を統一し、明治維新を遂行する方法がなかったのである。

 しかるに以来八十年、日本の民主政治は十分の成功を収め得ず、ついに今日の事態に立ちいたった。

 それにはもちろん、そうあるべき世界史的理由があった。明治元年すなわち一八六八年以後の世界において、日本が置かれた環境は、民主主義の発達に決して好適の状態にはなかった。

 しかし同時に国内事情としては、日本の政治家ごとに政党政治家が、政治の目的を政権の争奪に置き、これがためには手段を選ばず、過烈の政争を繰り返したことが、日本の民主化を致命的に妨げた原因であった。彼らの心構えは根本的に民主的でなかった。

 その源流を尋ねれば、けだし彼らが元来中国の政治思想に養われた人々であったことであろう。中国の政治理想は王(すなわち理想的独裁者)たることであって、民主主義ではないからである。いわゆる王道は、仁義に基く善政を敷くことを要求するが、しかしそれはたとえば牛飼が、牛を大切にしなければならぬと教えられるのと等しい。王の位地を保ち、王の利益を保護する手段として考えられた思想である。しかるに王道を敷くのには、まず王の位地を獲得しなければならない。それには力を用いる要がある。けだし中国には覇道なるものが生まれた理由だ。明治以来の日本の政治が、形体は一応民主化されながら、本質において政権争奪の修羅場化したのは、すなわちこの覇道政治に堕したものといえる。

 明治維新は、主として薩長土肥等の諸藩の青年武士によって行われたのだが、彼らはもちろん前述の中国思想の持主であった。彼らは明治維新をもって民主主義革命とは考えず、彼らの武力で徳川幕府を倒し、王政の下に、覇権を彼らの手に掌握したものと心得た。だから彼らの中には、ずっと後にいたっても、もしこの政権がほしいのなら、槍先で来いと豪語した者があったと伝えられた。明治維新は、一般国民の要求によって起された変革ではなく、少なくもその形体においては、旧来の支配者階級間の分派闘争として行われたのであるから、この闘争の勝利者ないしその後継者が、右のごとくに考えたことも、必ずしもまちがっていたとはいえない。明治から大正にかけて、大なる勢力を振ったいわゆる藩閥政治家は、いずれもそれであった。彼らは善政を心懸けた。国運興隆のために粉骨砕身した。しかし民主主義には常に猛烈に反対した。これは彼らのおいたちからいうと、いたし方がない運命であった。

 ところが日本の政党はまた右の藩閥政治家と同じ基盤から発生した。すなわち日本の政党の創設者は、ともに明治維新の元勲で、そのおいたちは、他の藩閥政治家と何ら異なるものでなかった。板垣退助と大隈重信とが、それである。ただ板垣と大隈とは、明治政府の二大藩閥であった薩長閥に属さなかったため、権力の位地から追い出された。彼らとその一味とは、この形勢に対処する手段として、政党を組織した。彼らはかくてここに新たな基盤を求め、薩長藩閥と戦う態勢を整えたのである。政党は必然民主主義運動を伴わなければならない。日本の政党ももちろんその方向をたどった。しかしそれは方便であって、彼らの目的は前記のごとく、薩長閥を倒し、政権を獲得することにあった。換言すれば日本の政党は民衆が民衆のために起したのではなく、政治家が民衆を利用する方法としてくふうしたのであった。

 世の中には、しかし嘘から出た実ということわざがある。もし日本の政党政治家が、あくまでその初一念を貫き、藩閥打倒に努力してくれたら、たとい彼らの動機はどこにあったにしても、日本の民主政治は、この間に必然大いに発達する機会を得たであろうと思う。

 しかるに不幸にして彼らは藩閥打倒の初一念を捨てた。のみならず藩閥と妥協結託して、政権に近づく方法を発明した。

 湛山は明治維新はあくまでもクーデターであり、日本の政党はこのクーデターのメンバーによって構成された以上、民主主義とはあいいれないと指摘している。これは、先に述べた通り、明治憲法が責任内閣制をとらなかったことからも強調される。明治維新はピューリタン革命やアメリカ独立戦争、フランス革命のような市民革命ではない。市民革命は台頭する産業資本家が絶対主義支配に代わって国家権力を把握する政治改革であり、封建的秩序から近代市民社会への移行である。それは議会制の民主化、身分制の廃止、営業の自由を押し進めた。一方、明治維新には経済的な要因が少ない。明治維新は政治的主導権争いが引き起こしたにすぎない。明治維新において、身分制の廃止を別にすれば、議会制の民主化や営業の自由など問題になっていなかったのである。議会制民主主義の影響を受けた洋学者たちによって提唱された公議政体論を土佐藩が支持し、武力討幕を主張する薩長に対抗した動きや、世直し一揆や打ちこわし、ええじゃないか運動など農民を中心にした倒幕運動もあることはあった。しかし、明治維新は、産業資本がまだ発達していなかったので、あくまでも経済ではなく、政治主導である。江戸時代の日本は商人資本的なブルジョアジーが発達していたため、革命は、フランスや合衆国の場合と違い、ブルジョアではなく、ナショナリストによってしか引き起こされなかった。これは革命と言うよりはクーデターである。今でも政治家を譬える際、その対象は明治維新にかかわった武士であり、武将なのである。湛山の側近だった宮川三郎などは彼を信長に譬えているが、なるほど湛山にはエドワード・エルガーの『威風堂々』がよく似合うとしても、こうした見方が反湛山的だということをその立場にあってもわかっていないのだから、いかに政治家の関係者が思考能力に問題があるかを如実に表わしている。近代国家である明治政府はこのクーデターを通じて形成された。天皇は、近代国家設立のために、「過去の亡霊」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)として必要とされたのだ。天皇制は、その意味で、ボナパルティズムである。天皇制の固有性がしばしば問われるが、明治以降の天皇制は宮中派と西洋派との政争の妥協として形成されたのだ。明治維新のイデオロギーは近代化である。しかし、それは西洋派を勢いづかせ、宮中派にとって、自らの存立基盤を危うくする。宮中派は影響力を増すために、儒教道徳の復古などを提案する。ところが、宮中派の主張は西洋は経の対抗措置でしかなく、対具体性に欠ける。けれども、天皇は、維新後、しばらく、この両者のパワー・バランスにおいて君臨していた。そこで、妥協が図られ、具体性のなさを西洋派が補うだけでなく、維新のイデオロギーとの整合性を調整することになる。その結果、明治の天皇制の苦しいイデオロギーが出来上がったのである。天皇制は近代的な立憲君主制と儒教道徳の混合物にすぎない。そして、中央集権化の手段だった度量衡が後漢の光武帝の金の升制定によって象徴となったように、天皇も象徴と化したのだ。

 文部省一九四三年制定教科書『初等科国史』上には、次のような記述が見られる。

 高千穂の峯 遠い遠い神代の昔、伊弉諾尊、伊弉冉尊は、山川の眺めも美しい八つの島をお生みになりました。これを大八州といひます。島々は、黒潮たぎる大海原に、浮城のやうに並んでゐました。つづいて多くの神々をお生みになりました。最後に、天照大神が天下の君としてお生まれになり、日本の国の基をおさだめになりました。大神は、天皇陛下のご先祖に当たらせられるかぎりもなく尊い神であらせられます。御徳きはめて高く、日神とも申しあげるやうに、御恵みは大八州にあふれて、海原を越えて、遠く世界のはてまで満ちわたるのであります。

 こうした「神という職業の男と女とが、セックスをして国を生んだという」(寺山修司『幸福論』)歴史観を目にするとき、「亡霊」という言葉をわれわれは修辞的意味としてではなく、字義通り把握しなければならない。ボナパルティズムはオカルティズムを内包している。マルクス=エンゲルスは、『共産党宣言』において、「ヨーロッパに幽霊が出る−−共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。法皇とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ官憲」、と書いたが、お化けと幽霊、妖怪はそれぞれ違う概念である。お化けは特定の土地や建物に憑いて現われるのであり、幽霊は場所を選ばずどこにでも出現し、妖怪は動物が化けてでたものであって、共産主義は場所を選ばないのであるが、ボナパルティズムもそうなのである。「『天照大神が天下の君としてお生まれになり」という表現は、大神が生まれたときには、すでに『天下の君』という役割りを与えられていた、という発想であり、『永山則夫が、拳銃殺人魔として生れた』というのとかわるところがない。そこに書かれなけれはならない大神をめぐる歴史が、まったくないのである。『御徳きはめて高く』『御恵みは大八州にあふれ』『かぎりもなく尊い』と、三行に三度も出てくる最大級の言賛辞が、行為の説明もなしにあらわれてくると、私たちは戸惑ってしまったものだ。少年時代の闘いは、一口に言えば社会の作り出したさまざまの『先入観』との闘いである。疑うことを許されぬ、夏休みの少年にとって『歴史とは何か?』は興味の外になり、しだいに神話と合理主義的諸科学の対立、という本質的な史観の学習のたのしみを捨てさせ、歴史きらいに追いやってしまったものであった。(略)われわれの教室は、どんなにたびたび、歴史を欺いてきただろう」(『幸福論』)。戦前はこのように子供に教育していた天皇制は資本主義の運動に対する政治的防衛にすぎず、それが生き延びるためには、歴史的・社会的変化に対応しなければならない。だから、皇室は、ブルジョア・イデオロギーに基づいた家族を演じしているように、大衆の志向に敏感なのである。

 代議制は代表するもの、すなわち諸言説と代表されるもの、すなわち生産諸関係との関係を明確にする。クーデターの首謀者と参加者が制定した明治憲法および議会におけるこの両者は利害によって直接的に結びついていない。明治維新の推進者はもともとの主君を見捨て、天皇を担ぎ出す。主君と家臣が互いに背を向け、江戸時代には、京都と水戸以外では、何ものでもなかった天皇が権力の中枢になるのである。彼らが支える主君の差異を消去するには、彼らにとっては最も無力な別の、外部の君主を必要とする。天皇は王であって王ではなく、むしろ、ジョーカーなのだ。ボナパルティズムは、ある意味で、ババ抜きに似ている。われわれには構造主義的なゼロ記号の議論は素朴にしか思われない。トランプだけでもババ抜き以外にゲームはあるし、カードのほかにも、多種多様なものがあるのであって、一つのカード・ゲームで世界が説明できるわけがないのである。そもそもババ抜きは、それとして理解し、ルールを知る人がいなければ、成立しない。クーデターの参加者の意識は代議制において言語化されないがゆえに、倒錯して、表われるのだ。代議制は言語化の行為である。ボナパルティズムは有権者の消極的な意思表明であるが、これに幻滅すると、有権者は投票行為を辞退することによる意思表示を行い、傷つくことのないような自己防衛として、無を欲することになる。「人間は欲しないよりは、まだしもを欲するものである」(ニーチェ『道徳の系譜』)。この無は組織の集票の比率を押しあげ、組織に有利な結果が選挙を通じて表出されるのである。投票率の低下は投票行為の行使を政治的基準からではなく、道徳的判断からとらえられるようにさせる。投票の棄権は、宗教組織の構成員の投票率が著しく高いように、罪深き身勝手な反道徳的行為なのである。権利である以上、投票するか否かその人の自由意志の領分にまかせられていることが問題なのだとして、それを義務化する動きも少なくない。投票行為が自己の意思を社会に、政治を通じて、反映するという考えは誤謬である。代議制を支えるのは市民社会的個人主義にほかならない。「無への意志」の恒常化と組織化はシニシズムであり、変革を最も疎んじる。ボナパルティズムは代議制をこのニヒリズムに導くのである。選挙は代表するもの代表されるものとの関係をフローにする。投票は実験にほかならない。投票行為は直接性を分断する媒介物を導入するために行われるのである。だが、かつて代議制が始まったことによって、破壊から建設へと人々の目標が移行し、「問題の社会化」が生じている。けれども、これではまだ不十分なのだ。参政権を限定すればするほど、無記名投票の意義は失われるのである。普通選挙は代議制に不可欠な匿名性を拡大する。クーデターのつくった議会内の混乱は議会外の秩序を分裂させる。ある対立は別の対立によって解消されるという対立の顕在・隠蔽という連鎖が続く。議会内の対立は弁証法的に止揚されず、議会の外に横滑りを起こすだけである。尾崎行雄は、イギリスでは身分や階級が明確であるが日本ではそれが不明瞭であるという理由で、普通選挙に反対しているのだ。湛山は、この点に限らず、尾崎行雄に対して、全体的に、安吾と同様、否定的に見ている。尾崎行雄は代表するものと代表されるものとの関係を固定的に考えていたのである。両者の関係は選挙という行為を通じて形成される。党派性は行為において顕在化するのである。普通選挙は議会の基調を財産所有に応じた排他主義を自由主義へと転換させるのだ。自由主義は権力の所有を平等に分配することを要求する。競争するには、その条件は平等でなければならない。地方分権が進まないと、国会議員は中央から地方へと予算を獲得することだけを仕事にしてしまい、国政は手がまわらなくなってしまう。これは現在でもまったく直っていない。vox populi vox dei.

 湛山は、『湛山回想』で、日本のファシズム台頭の理由を次のように書いている。

 満州事変から急激に勢力を伸ばした日本のファシズムは、無論イタリアのファシズムや、ドイツのナチズムの影響を受けて生まれた思想である。しかし日本自体にその根をおろす素地がなければどんな思想でも、ただ輸入しただけで生育するものではない。しからば日本におけるファシズムの素地は、何にあったかといえば一つはイタリアやドイツのそれと等しく、当時のはなはだしい不景気と国民生活の困難とであった。その二は当時の政治に対する国民の不信、換言すればその政治を支配していると信ぜられた政党、財閥及び特権階級(けだし元老重臣をさしたものと思われる)に対する民衆の反感であった。しかして後者は、前に述べた政党間のどろ試合、すなわち、その手段を選ばぬ政権争奪戦が国民に与えた影響であった。ことに一部の政党がロンドン軍縮会議の結果及び対支政策等を利用して、軍部に働きかけたことは、さらぬだに軍縮や、いわゆる軟弱外交に不平をいだいた軍人及び国家主義者らの感情をあおり、その暴挙を大いに支援した。実際昭和五年から六年にかけてロンドン軍縮条約締結(昭和五年四月成立)に対し、政友会が浜口内閣に向かって行った攻撃は猛烈をきわめた。これは必ずしも倒閣のためではなく、まったく国防の前途を憂えての行動であったとの弁解もあるが、しかし少なくとも結果においては民主主義を滅ぼし、国家を滅ぼす運動の先駆をなした。初め政党の政争に利用された軍部は、やがて政党を軽視し、踏みにじって、自ら政治の主導者たるにいたった。

 軍隊を支えるのは、ハイテク化が進んだとしても、重化学工業である。これには国家による強力な統制が必要であるから、官僚による指導がなければならない。重化学工業は基幹産業であるが、明治時代、その主要な需要先は民間以上に、軍需産業である、軍事は国防に関係する官僚による膨脹主義やセクト主義によってもたらされている。「重ねていうが、わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす」(『日本防衛論』)。湛山は彼らを「軍閥」と呼んでいる。「軍閥」は国民のルサンチマンにうまくつけこんで、自分たちの部署を膨脹することに利用する。日本の議会は(他人の犠牲において楽しむ娯楽を意味する)「ローマの休日」(バイロン)にひたっているというわけだ。ファシズムは代議制の危機に登場する。代議制は不透明さを内包し、不純であるから、純粋に「人民の意志」を表明する体制としてファシズムは求められるのである。ナチの政治思想家カール・シュミットは自由主義と民主主義を区別して論じたが、自由主義は経済的原理であり、民主主義は政治的原理であって、われわれにはシュミットの識別は経済を政治で支配しようとする発想にしか見えない。政党はある特定の階級や団体を代表している。しかし、歴史的背景や社会的関係・構造が変化すると、その代表するものと代表されるものとの関係は成立しなくなる。その関係を維持し続けようとすれば、腐敗が起こり、代議制は機能しなくなる。

 湛山の官僚主義とは国家管理体制を意味している。官僚制を保護しているのは民間企業や団体は営利に走り、国家による統制をしなければ、資本の独占をはかり、腐敗するという信念である。当局の権力の拡大を否定しながら、国家によるさらなる援助や法的規制を要求する矛盾が起きている。日本には経済学はなく、ただ経済美学イデオロギーがあるだけだ。しかし、これは地方分権が進んでいないためなのである。日本ではボランティア活動が活発化しないのは、弱者救済が徴収された税金を用いた国家による独占的事業だと信じられているからである。官僚制が強くては民間の自発的奉仕事業は育たない。合衆国では民間が、営利追及をせずに、福祉事業を経済活動として十分に経営しているケースが多い。教育問題が起きる度に、日本では、管理を強化する保護主義的方針がとられるが、実際には、保護主義的教育が問題を助長しているのである。戦後教育の否定に向かい、戦前のものの復権を説くのはまったく馬鹿げている。コスタリカの大統領選挙における子供の投票の試みを、むしろ、日本も参考にすべきだろう。受験競争は自由競争の欠如によって発生しているのであり、いじめ問題に悩まされているのは、学校では見放された落ちこぼれにも丁寧なケアをしている予備校には存在していないように、自由競争のない、もしくは稀薄な機関である。予備校にはないクラブ活動を含めた学校における体育教育は、特に、針を見つけられない。教育問題の多くか最も保護主義的姿勢が疑われずにいる付近で生じているとも見える。公の体制に入りこめば、自由競争から免れるという状態が問題を激化・悪化しているのである。いじめる子供は家庭の厳格さではなく、真の孤独が不足しているのだ。“Laugh, and the world laughs with you; Weep, and you weep alone“(Ella Wheeler Wilcox “Solitude").

 ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手にしている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手にしていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間を自己喪失と呼びたい。(略)孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。

 思惟は孤独の営みである。世界は少しばかり沈黙しなければならない。だが自己喪失は思考のはたらきに致命傷を与える。

(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)

 アダム・スミスは公が民間に対して善であるという道徳的確信を否定した。彼によれば、中世において利己心は否定されていたが、倫理の判断の基準は行為や感情に対する同情であり、行為や感情の動機ないし結果は「公平な傍観者」の同感が必要である。自分の利益を守ろうとすることは、正義の徳性に合致するかぎりにおいて、肯定されなければならず、それが社会の存続と発展の基礎にほかならない。利他心は社会の総植物であるが、利己心は社会の主柱なのだ。人々が自己の利益や幸福を追及するならば、「神の見えざる手」に導かれて、おのずと社会の利益と一致して、国家的な経済発展をもたらす。だから、国家は各個人の利己心に基づく利益の追及の行為を自由に放任すべきである。この「神の見えざる手」はライプニッツの予定調和とは違う。

 アダム・スミスは、『諸国民の富』において、「神の見えざる手」について次のように説明している。

 彼はふつう、社会一般の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知らない。(略)彼は、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自らは意図してもいなかった一目的を促進することにもなる。彼がこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追及することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に、社会の利益を増進することもしばしばあるのである。

 一方、ライプニッツは、『モナドロジー』において、予定調和に関して次のように述べている。

 以上の原理のおかげで、魂と有機的な体との結びつき、もしくは一致ということが、からくりなしに説明できるようになった。魂には魂自身の法則がある、体にも、体自身の法則がある。それでいて両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存在する予定調和のためである。そしてその調和が可能なのは、どの実体も、みなおなじ一つの宇宙の実現にほかならないからである。

 両者の記述から証明方法の差異が明確になっているだろう。予定調和は演繹的結論であって、「神の見えざる手」は帰納法的「予想」にすぎない。われわれは、「神」から、超越的立場の何ものかによって市場を管理・統制し、個人と社会を調停しなければならないという意味を読みとるべきではないのである。「社会一般の利益を増進しよう」と意図しているか否かにかかわらず、「自分の利益を追及する」行為が「社会の利益」を増進した場合、それは、結果的に、「見えざる手」に導かれているのである。これは原理やルールとは言えない。市場の均衡はある法則に保証されているわけではなく、結果としてその状態に達した場合、それを「神の見えざる手」が可能にしたと考えるほかないのだ。意図していないにもかかわらず、「社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に、社会の利益を増進すること」がありうるという事態は。デカルトの神の証明以上に、この概念の登場を必要とはしない。アダム・スミスはこの思い通りにならない事態を意識していた。自由主義の前提は人間は与えられた諸条件の制約の下に生きざるを得ないことであり、その目標はそれを思うがままにつくりかえることではなく、条件を考慮しながら、創意工夫して、新たな諸関係を生成することである。アダム・スミスはホッブズではなく、ロックの伝統の下にある。「心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心想が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきた。あの膨大な蓄えを心はどこから得るか。どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。これに対して、私は経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する」(ロック『人間悟性論』)。アダム・スミスの「神の見えざる手」は証明ではなく、ある過程への命名にほかならない。アダム・スミス以前の経済学者たちは、経済における一つのアルケーを設立しようとした。しかし、アダム・スミスは、経済システムの発展や均衡状態に統一的な説明をすることは不可能であるから、それには「神の見えざる手」に導かれているというフィクションを物語っておけばよい、と考察したのである。ある産業が経済を決定するのではなく、経済が産業を規定するという視点の転換が彼を経済学の始祖にしたのだ。一方、予定調和は法則である。諸実体の間には予定調和の法則が働いており、「どの実体も、みなおなじ一つの宇宙の実現」をする。いかなる努力や創意工夫をしたとしても、法則に基づいて、支離滅裂なすべての「実体」は予定調和に落ちつく。ほとんどこれは予言であろう。それゆえ、スミスにとって、国家が裕福でありながら生ずる貧困は分配の問題なのである。関税や交易に関する制約を撤廃し、物資の交流の自由と利益を追及する個人の自由を与え、分業によって市場が拡大すれば、最も好ましい社会的結果がもたらされる。こうした自由に対する伝統的な敵は関税をかけ、独占を認可し、本来放任すべきものを規制したがる官僚制と国家であるが、と同時に、資本家自身なのだ。「同業者仲間が顔を合わせると、楽しみや気晴らしのために集まったときでさえ、会話はたいてい社会一般にたいする陰謀とか値段を釣り上げるための方策といったところに落ちつくのである」(『諸国民の富』)。経済的平等は自由主義の繁栄を保証する。経済的格差があっても、それは時間的経過が解消するのだ。生産開始当初は高価な商品であっても、技術革新が生産量を増やすと同時にコストを下げた結果、価格が低下し、購買層が拡大する。自由主義者には自由は空間的であり、平等は時間的である。しかし、経済発展が停滞した場合、この平等は達成され得ない。統計的な右肩上りの経済発展は、永久には、続かないことは間違いないのである。この発達を維持するために、国家は自由主義を放棄し、帝国主義へ乗り換えるのだ。国家にとって、自由主義はレトリックな意味であり、帝国主義がリテラルなものなのである。恐慌をきっかけに両者は転倒するのだ。帝国主義は時間的差異を空間的なものへと変換する。富めるものと貧しきものとの格差は広がり、それを埋めるには国家の強大な権力による介入・統制が不可欠と求められるのである。貧困層の忍耐の限界を超える事態を自由主義を保証できない。自由主義は、経済的には、市場原理に基づいている。恐慌のせいで自由主義が失ったのは、貨幣への信頼だけではなく、自分自身の信用である。大日本主義は領土と資源があれば、経済発展できるという極めて素朴な信念に基づいている。領土や資源に恵まれていても、一部の特権階級が豊かになっただけで、ほとんどの国民が貧困に苦しんでいる国は少なくない。経済発展には、何を所有しているか以上に、いかに使用するかが基本となる。湛山は労働力を重視する。労働力をいかに用いるかという知恵を考え出すことが彼の小日本主義なのである。leg ahim yoe, kadin mche.

 湛山の恐慌に対する政策提言は貨幣に向けられている。これはケインズの『貨幣論』の影響を受けている。ケインズ主義は恐慌をのりきるには国家の全面介入が不可欠だとする。官僚主義はここから生ずる。ハイエクによれば、あの恐慌を招いたのは国家の干渉や諸国家の貨幣であって、それを国家による金融政策でのりきるのは「結果と原因の取り違え」にすぎない。主人と奴隷の関係は固定されてはいない。主人と奴隷の関係の転倒はよく起こるのである。奴隷は、自分自身を利用する目的を理解していれば、主人の弱みを知っている。「ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」(マルクス『資本論』)。恐慌の謎を解く鍵は貨幣にある。今日、経済学に限らず、批評において、貨幣が関心事となっている。経済活動における貨幣ではなく、貨幣という言葉が魔法の合い言葉になっているのである。われわれには直接性・無媒介性を志向することなく、言語における貨幣フェティシズムを貨幣論で説き明かす必要があるだろう。そこにわれわれは理論化する際の摩擦が生ずることを発見するわけだが、それを指摘するだけは不十分なのであって、その摩擦熱をエネルギーとして利用する方法を考えるところまでつきつめなければならない。近代経済学が貨幣を軽視していたことは事実であるとしても、貨幣が経済のすべてではないことは忘れてはならないのである。経済活動は貨幣という間接性・媒介性によって機能するが、われわれは、さらに、それを分析しなければならない。

 ジョン・ガルブレイスは、『不確実性の時代』において、貨幣について次のように書いている。

 人間のすべての感情をあますところなく研究するうえで、精神科医の寝椅子に次いでうってつけなのは、おそらく現代のスーパーマーケットでしょう。それこそ、現代の政治家がスーパーマーケットへ出かけていって票集めをする理由だと考えられるのです。スーパーマーケットに立寄り、あるいはそこから帰っていく人びとは、それぞれ共通した不安にとりつかれており、そのためにこの危惧の念と関連ある政治の争点にきわめて敏感なのです。不況や景気後退のおりには、人びとはお金がなくなりはしないかどうか、この次に買物車を押すときには支払えるだけのお金があるかどうかを心配します。景気が過熱し、あるいはインフレのときには、人びとはこの次の買物では自分に買える品物がまだ残っているだろうかと自問するのです。

 スーパーマーケットでの不安の焦点は、貨幣にあります。貨幣こそは、人生における最大の不確実性の一つであり、ずっと昔からそうだったのです。他のどんなことにもまして、貨幣というものを理解するには、その歴史に通じていなければなりません。かつては単純だったものが、今や複雑になってしまいました。しかし、貨幣がどのように進化してきたかを見るならば、つまりその複雑さを歴史の流れにそって解きほぐしてみるならば、最後にあらわれた結果を理解するのはそうむずかしいことではありません。われわれはかなり容易に、貨幣が焦点となっている不確実性を見通せるのです。

 経済学は恐慌を防止することはできず、「予想」することを目標とするだけである。恐慌は好況期に用意されている。貨幣と景気の関係は物価変動ではなく、相対価格体系の変動と関連しているのだ。ケインズ主義に基づく財政・金融政策は矛盾を露呈したが、だからと言って、限界効用学説への回帰は不適切である。「予想」は帰納法である。「予想」がはずれたからと言って、野次をとばす程度でおさまらず、本気で怒りを覚えるとしたら、競馬は禁止せざるを得ないだろう。Sabaydi.

 湛山は、『湛山座談』において、帝国主義以上に厄介で、「資本主義と共産主義がいずれ一緒になるというときにも、なおかつ一番最後まで残る問題」はナショナリズムだと次のように警告している。

 ただ、僕が一番おそれ心配しているのは、民族主義、ナショナリズムなんです。これのほうがかえってこわいですね。ナショナリズムはなくなりません。帝国主義は、なるほど理屈で考えればああなるだろうけれども、あんなものは、たんなる議論、理屈だし、実際においても資本家とか一部の人間のいわば理屈みたいなものでもって成り立っている。つまり、そこには人間の感情というようなものが入っていない。ところが、ナショナリズムのほうは民衆の感情ですから、かえってこわいと思う。

 やはり平和共存といまいったナショナリズムをどういうふうに調和させるかということだと思います。戦争の心配はまずない。そうするとナショナリズムをどういうふうにしてプラスの方向にむけるかということが問題ですね。これは結局、人間自身の問題です。つまり体制とか組織とかいうけれど、つきつめていえば人間の問題だ。人間が人間自身と取り組む。これが一番重要なことではないですか。

 かつてのナショナリズムの勃興は反帝国主義の運動であったが、今日のナショナリズムは移住労働者や難民の移動による近代国家概念の解体の徴候である。帝国主義の搾取ば第三世界の貧困だけでなく、世界的環境破壊をもたらした。湛山は「人類」ではなく、「人間」という言葉を用いている。この場合の「人間」はヒューマニズム的意味を帯びていない。湛山はたった一個の「人間」にすぎないのだという自覚に基づいて自分自身として生きることを勧めているのである。湛山は、『婦人之友』一九四七年四月号によせて、「正しい意味の個人主義とは、先ず第一に個人の権威を絶対に尊重することである。為政者が国民に対して個人の権威を尊重するばかりでなく、国民各自がお互いに自他の個人的権威をみとめ合う」ような「個人主義の徹底」が必要である、と提起している。彼の「人間」は個人主義的意味を持っているのである。「西洋の個人主義或は自由主義等と呼ばれる思想の影響を多分に受けて育った」と告白する湛山は、『人生と経済』の序文において、「社会と個人、さらに広き辞を用いれば全体と部分、此等は決して別々の存在ではなくして、一つの物の二つの面、若しくは二つの作用である。全体は勿論部分から成るものとして認識されるが、部分は亦全体がなくしては認識し得ない存在である。此等の二つは、相対立しながら、互いに補完して、全一の実在を成すのである」、と書いている。「個人は絶対におかすべからざる独立の存在であると同時に社会的な存在物であるから、個人の自覚と判断とによってむしろ進んで社会と調和し、社会のために貢献するのは当然のことである」。個人は「独立の存在」であっても、孤立しておらず、諸関係に置かれた「社会的な存在物」である。湛山はこの「社会と個人」の認識を国内外のさまざまな問題解決にも応用するのだ。彼は、一九五八年、沼津で、「もしも世界の平和がそれによって保たれるならば日本は滅んでもよい」、と演説している。これはたんなる自己犠牲の精神の吐露ではなく、まず自分自身から襟を正そうではないかと提唱しているのである。そして、湛山が労働組合を肯定するのは、「温情主義」を斥けて、「経済的にも交渉するようにする」契約を導入するためである。労働組合はたんなる労使対決の場てはない。「労働運動の帰結は労資の階級撤廃にある。過去に於て労働者運動が、単に物質的待遇の改善を資本家に求るの形式に出たのは、彼等労働者の自己の力を自覚することの不充分であったためである。戦争に依って欧米の労働者は其力を自覚した。露国の革命は更に其信念を強めた。理として労働者は何故に其従事する生産を支配し得ざるか。資本家が之を支配し得るならば、労働者も亦之を支配し得る筈である」。「資本家が結局負担せざるべからざる経営の責任を撹乱せざる限り」において、「従業者に経営の権を解放する意味が成立つ」。政治も例外ではない。湛山は戦時中の「挙国一致」を、「絶対におかすべからざる独立の存在であると同時に社会的な存在物」の性質を無視して、たんなる画一性の強要にすぎないと吐唾している。「伝記において本当に大切なのは、その人物が何を思い、考えたかであって、何を成し遂げたかではない」(グレン・グールド)。今の日本の二大政党論者は、リーダーシップを強調するように、国家主義者・ナショナリスト・保護主義者である。二大政党論は自由競争を基盤としていなければならないのであり、一人が強力な指導力を発揮する体制は、前述したように、官僚主義にすぎない。二大政党制はアデランスとアートネイチャーの競争形態が理想なのである。リーダーシップを強調する権威ある政治批評家たちは、庶民の代弁者として、軽蔑をかくせない表情で、そこでの答弁とは正反対に歯切れよく、議会の無力・無能を非難しつつ、本気で、よりすぐれた指導者の登場を待ちわび、過去の強力で偉大な首相を懐かしんでいるのだが、それは、結局、自らの立法府の権限をより弱めることにすぎない。人民の政治ではなく指導者の政治が彼らの理想なのだ。彼らは自分で問題にとり組むのではなく、誰かそれを解決してくれる人を探すのである。“Don´t follow leaders Watch the parkin´ meters"(Bob Dylan “Subterranean Homesick Blues").立法府の情報を公開する能力を高め、それに対する世論によって、国民や市民と議員が手を結んで、圧力を行政府にかける。なるほどわれわれの選挙制度が分別ある有権者にその判断を託しているかもしれないが、金にもそれを譲渡しているのだ。政治に金がかかるかどうかは別として、少なくとも、政治家には金が不可欠である。日本の政治家は後援者というたかり屋をダンピング確実な格安の温泉ツアーに連れていかなければならないのだから。もちろん、われわれは国際平和を願うことが動機の一つではあったが、やはりマニア趣味でベリ・カードを集めるBCLをしていたのである。BBCでは柔道好きのニューマン部長がエイプリルフールになるとビッグベンが売却されるなどと言っていたし、イタリア国営放送は一度手紙を書くと十年以上プログラムを送ってくれたし、ラジオ・オーストラリアは、一枚のリポートに対して、コアラやカンガルーのカードを複数枚送ってくれたし、今はないドイチェ・ヴェレは『ファミリー・バウマン』というドイツ語会話のテキスト−−日本語版も同時に−−やテープを無料でくれたものである。裕福な階級は、その投票権を有していた歴史が長いためか、一般大衆よりもはっきりと自己主張をするから、彼らの不満が庶民の怒りの声として政治家には受けとめられるのである。今の政治は有権者と金との妥協の産物にすぎない。「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に理解されているよりずっと強力なものである。事実、世界はほかならぬそうした思想に支配されているのだ。自分ではどんな知的影響もまったくこうむっていないと信じている実務家も、たいていはもはや過去のものとなった経済学者の奴隷になっている」(ケインズ)。日本では、欧米と違って、ケインズ主義が劇的に勝利したことはなかったが、ケインズ主義的なてこいれ政策が頻繁にとられている。われわれは湛山から見出すのはケインズ主義ではなく、やはり、自由主義である。自由主義は「限定された学説ではなく、一つの思想的傾向だ」(『自由主義とは何か』)。通俗的に唱えられる自由主義は、レーガン主義が示しているように、たんなる反動的保守主義にすぎない。何しろ、合衆国の自称自由主義者たちは『セサミ・ストリート』をうちきろうとしているのだから、これに疑問の余地はない。小さな政府という単語以外を知らない小さな脳の持ち主はビッグ・バードを殺そうとしているのだ。ちなみに、これは、幼いころ母親の腕に抱かれて電車を待っていると、いつも、その容姿を見るために集まってきた人たちで人垣ができたという伝説の持ち主であるわれわれの現在のニックネームでもある。祭りが苦手なわれわれを、中井久夫が見たら、統合失調症のウェイ・オブ・ライフを実現していると涙を流して喜ぶことだろう。反動である彼らには、真の自由主義、すなわち「プリンツ・フォーゲルフライ」(ニーチェ)は許しがたいものであるから。「われ、むしろ、素朴にもつつましく生きたきかな、屋根上の鳥の自由もて」(ニーチェ『やけくそ』)。大国を「普通の国」と呼ぶという控え目な見識を持つ日本の政治家も籠で鳥を飼うことが好きなようである。彼らにとって、中立性とは自分の思い通りになる姿勢を指すのであり、彼らがリベラルすぎると憤るくらいの番組が、ちょうど公正なのだ。「有らゆる思想に、思いの儘の勝手な議論をさせるが善い。而して其自然淘汰に依って、正しきは社会に取り入れられ、誤れるは棄てられる」。「思想は唯だ思想間の優勝劣悪に依ってのみ淘汰される」のであって、政府の「思想善導」や関東大震災後の「国民精神作興に関する詔書」による教化政策などは救いようのない愚行であり、「吾輩は断じて云う治安維持法は国家の前途を危うく」する。湛山は、自由主義的競争によって無為・無能を是正し、やる気のないものは別の業種へと、自分にあった仕事への転換を促すのである。「私は、お金よりも競争こそが諸悪の根源だと信じている人間なのです」(グレン・グールド)。

 ローレンス・ヴァン・デル・ポストは、ナショナリズムを「現代世界の少年犯罪」と呼んでいるが、これはナショナリズムに限定されはしない。体制・反体制にかかわらず、「少年犯罪」、正確には未成年者の犯罪のヴァリエーションが国際政治にはつきものである。それをめぐる議論は未成年者の独善性や猜疑心、閉鎖性による空想物に覆われている。これは、古代において、さらに顕著に示されている。古代は平均寿命が短かった。そのため、古代文明は若者、特にティーンエージャーが達成したのである。古代の神話は四〇歳以上の大人が創造したのではなかった。中世にいたっても、老人どころか、中年も立つ瀬がなかったのである。Nasiyahan ako.

 「重要な点は、少年化は必然的にある程度の原始化をもたらす、ということである」としてエリック・ホッファーは、『現代という時代の気質』において、青年について次のように述べている。

 さて、青年の実存のおもな特徴はその中途半端さにある。それは少年期かに青年期への移行の一様相、根の喪失とドラスチックな変化の一様相である。もしわれわれの想定が正しければ、他のタイプのドラスチックな変化は幾分かは同様な心理的パターンを呈示するはずである。一国から他国へと移民する人々、ひとつの信仰から他の信仰へと改宗したり、ある生活様式から別の様式へ移行したり−−農民が工場労働者に、奴隷が自由人に、民間人が軍人になったり、低開発国民が急激な近代化を蒙ったりしたときのように−−する人々と青年とのあいだには血縁的な類似性がある。のみならず、活動的な人々−−労働者、農民、実業家、将官を問わず−−で突然引退する者、また更年期にさしかかった女性でさえ、青年を思わせる態度を示すことを考慮しなければならない。

 そこで、青年は推移する人間の原型である、ということになる。どの年齢沿う、どの上京にある人間であれ、ドラスチックな変化をこうむるときには青年の少年期から青年期への移行をある程度繰りかえすわけである。老人でさえ引退という突然の変化を経験するときには子供っぽい衝動、性向、態度を示すことがある。

 未成年者は「中途半端」を嫌う。彼らは、その精神的弱さゆえに、つねに極論に走る。安全保障や経済という国際政治に関する言説は未成年者の世界に属している。彼らの精神状態は未成年者のものである。“Gentlemen, you heard us the call. Raise your glasses, hope for more. Only young men broke the war ”David Sylvian “Cantonese Boy ).われわれは未成年者の素朴な支配にうんざりしている。「歴史は子供の不安、感受性、信じやすさ、フィクションの能力、残酷さ、独善をもった大人によってつくられる。玩具に望みを託す大人によってつくられる。あらゆる指導者は彼らに従う者たちを子供に変えようと努力するのだ」(ホッファー『情熱的な精神状態』)。子供や大人はそんなことしないだろう。三島由紀夫が中年にさしかかったとき「楯の会」を結成し、未成年性を露にしたように、未成年性は年齢ではなく、精神状態の問題である。“Sans teeth, sans eyes, sans taste, sans everything”Shakespeare “As you like it.

 われわれは、この未成年者に対し、「中途半端」ではなく、その場面や状況、人に応じて、最善の態度をとることを説くアリストテレスの『ニコマコス倫理学』のあの「中庸」を提示するのだ。

 すべて連続的にして可分割的なものにおいては、われわれは「より多き」をも「より少なき」をも「均しき」をも取ることができる。だが、これらは、あるいはことがらそれ自身に即してという意味においてであり、あるいはまた、われわれへの関係においてという意味においてである。「均」とは、過超と不足との何らかの意味における「中」である。いまことがら自身に属する「中」とは、両極から均しきだけを離れているところのもののことであり(この意味における「中」は万人にとって同一である)、だが、われわれへの関係における「中」とは、多すぎず不足しないもののことである。これは一つではなく、万人にとって同じではない。たとえばもし10では多いが2では少ないというとき、ことがらに即して「中」をとるならば6が「中」である。なぜならそれは均しきだけ超過をしまた超過されているからであり、すなほち算術比例における「中」項にあたる。だが、われわれへの関係における「中」はそんなふうにして決定されるべきではない。けだし、もしそうだとするならば、10ムナで食べすぎであるが2ムナでは足りないという場合、体育指導者は6ムナの食物を命ずればいいことになるであろう。実際はしかし、6ムナでは、おもうに、それをとるべき人によってあるいは多くあるいは少ない。(略)かくして、すべて指揮者は過超と不足を避け、「中」を求めそれを選ぶ。ただし、この場合における「中」とは、ことがらに即しての中間ではなく、われわれへの関係における中間である。(略)

 徳はいかなる技芸よりも、精密なより優れたものであるならば、それは「中」を心がけるものでなくてはならない(ここでは倫理的を言っているのである)。なぜかというに、このような意味での徳は情念と行為とにかかわるのであるが、これらにおいては過超と不足と「中」とが存在する。たとえば恐怖するとか平然としているとか欲望するとか憤怒するとか憐憫するとか、その他総じて快楽ならびに苦痛を感ずるということには、過多と過少とが存在しているのであり、いずれもともによくない。これに反して、然るべきときに、然るべきことがらについて、然るべき人に対して、然るべき目的のために、然るべき仕方においてそれを感ずるということは「中的」で最善なのであり、このことがあたかも徳の徳たるゆえんをなす。また行為に関しても同じく過超と不足と「中」とが存在している。徳は情念と行為にかかわるものであるが、これらにおいて過超ならびに不足はあやまつに反して、「中」は称賛され、正しきを得るのであって、称賛されることが正しきを得るということは、しかるにいずれも徳の存在を予想する。徳とは、それゆえ何らかの中庸ともいうべきもの−−まさしく「中」を目指すものという意味において−−にほかならない。

 靖国神社を認めない湛山の経済政策は楽観的と言っていいほど、積極的である。アランが言う通り、悲観性は気分の問題であり、楽観的でいるには意志が必要なのだ。いつも楽観的だった湛山は意志の人なのである。予言は悲観的であり、「予想」は楽観的なのだ。われわれは、娘には一度として「女のくせに」と言ったことがなく、電気アイロンやミキサーなどを早々に買う湛山に、新し物好き、失敗したらそのとき考えればいいという怖いもの知らずな楽天性や冒険心が感じる。なるほどその若々しい楽天さが彼の首相在任期間を導いてしまったのかもしれない。「ネヒコラチ チェ プ アッ シ リ エネオカイ」(加納沖『ネヒコラチ』)。At mais tarde.

 イエスは、『ルカによる福音書』十一章四七ー四八節において、墓について次のような言葉を語っている。

 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうて、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたは墓を建てているからである。

 これは実際の「殺し」のみを意味しない。歴史における選択・排除の原理である。イエスをキリストにすることがキリスト教成立の原因ではない。具体的な文脈の中でのイエスの他者としての言葉を無化するために、教会はイエスをキリストに祭りあげなければならなかった。キリストを迫害したものを非難するとき、教会もイエス「殺し」に「賛成」しているのである。単独性を一般化=特殊化することが「殺し」なのだ。これがイエスの場合に限定されないことは明らかであろう。「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」。「自分はこの言葉を聞くや否や、(略)一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵の様に重くなった」(夏目漱石『夢十夜』)。「百年前」は「おれ」が生まれる前のときだ。それは「重く」なる。

 安吾は、敗戦直後、高らかに『堕落論』において、次のように叫んだ。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くではあり得ない。人間は可憐であり虚弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女ではなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要だろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

 ファシズムは「堕落」に耐えられない脆弱な知性の反動である。あの戦争に負けた後、セネタースのピッチャーだった白木義一郎は打者をピッチャーゴロに打ちとると、一塁手にボールを転がして送球したり、キャッチャーにボールを投げ返して、一塁に転送させて打者をアウトにするなどのファンサービスで観客をわかせた。物はないが、その分、精神と社会の風通しはよかった。あの時代はすべてを手探りで始めなければならなかった。並木路子の『リンゴの唄』が流れ、大下弘のホームランが大空に放たれる中、人々は廃墟からなんとかたちあがろうとしていた。しかし、材料もなければ、設備も、技術も、知識も、金もなく、人もいない。あるものを創意工夫して生み出さなければならなかったのだ。試行錯誤の連続で、効率は悪かったが、確かに、生きているという充実感はあった。焼け野原のころはわれわれはすべてをそうしていたのだ。それは事実だった。しかし、日本人はそんなことはもう忘れてしまったかもしれない。高度経済成長とともに、狭い場所に物があふれてしまったため、風通しが悪くなり、空気が澱み、湿気が増え、黴が繁殖し、腐敗が蔓延して、われわれの健康を害させた。それは今でも続いている。もっとも高度経済成長の時代だって、酒仙打者と呼ばれた永淵洋三は、東芝の厚生課に勤めていたころ、三〇万円以上−−月給は三万五千円だった−−も使いこみ、監査が入りばれれればクビになるため、穴埋めの金が欲しくて、プロ入りしたというから、今では信じられないような話だ。われわれは、まず、「不要なるものを取り去り」、この部屋の窓を開けたい。さらに、あの風通しのよい時代、井上ひさしによると、「志村アナ凡プレーまで美技にする」という川柳が新聞にも載ったNHKの志村正順アナが「別所、豪快に振りかぶって投げた。川上、打った。唸りを生じて投げこまれた内角高目の豪速球、川上、ハッシと打って三塁ゴロ。むずかしい当たりであります。山本、燕のように身をひるがえして捕って一塁へ送球。飯田、蛸のように長く足を伸ばして捕球、アウト。間一髪アウト。満場、思わず、息を呑んでおります」と華麗に実況すると、そして、すかさず、別当薫が二塁を回って三塁に滑りこむ美しさを「感に堪えぬ」と称えた小西得郎が「なんとー申しましょーかー、打ちも打ったり、捕るも捕ったりという名プレーであります」とコメントをつけ加えるのも忘れない。これは優勝決定戦の歴史的ファイン・プレーではなく、平凡な試合でのただの平凡なサード・ゴロである。彼らはこの調子で一試合通じて中継するのだから、いい時代だったと言わねばなるまい。ちなみに、ジャック・ロッシの『ラーゲリ註解事典』を読んだことがあるわれわれはシベリアについて聞かれても、水原茂ではなく、大瀧詠一太田裕美の『さらばシベリア鉄道』を思い起こす世代である。ただ、『さらばシベリア鉄道』を聴いていると、ついついジョン・デイトンの『霧の中のジョニー』のメロディーが浮かんでしまう。

 ここで先に引用したフランクルの『夜と霧』の言葉を思い起こす必要がある。日本の戦争責任をうやむやにしようとするものに対しても適用してかまわないであろう。すきあらば、日本人は加害を問題にすることなく、自分たちがいかに被害者だったのかを情緒的に語ろうとする。被害と加害を相殺しようとするのだ。先に述べた通り、われわれが彼らの発言や態度に憤りを覚えるのは、欧米のアジアに対する帝国主義支配を根拠に、「元来少しも悪い」はずのない人が「不正に苦しんだ者」であるから、「不正をする権利」を持っているかのようにふるまってもよいかのごとく展開するからなのである。「たとえ不正に苦しんだ者でも不正をする権利はないということ」をわれわれすべてがつねに自らを戒めなければならない。「百年、私の墓の傍に座って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(『夢十夜』)。

 文部省は、一九四七年刊行の小学校教科書において、あの経験を踏まえ、次のように記したのである。

 よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって相手をまかして、自分のいい分をとおそうとしないということをきめたのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。

 日本は中江丑吉が開戦前から「太平洋戦争」と呼んでいた戦争に負けた。日本人はこの敗北を不可避的事実として認めなければならない。意見は事実を隠蔽するときに出現する。湛山と立場は違っても、関東軍の参謀石原完爾もこの事実を受けとめていた。石原完爾は、日蓮宗の信仰と欧州戦史の研究に基づいて、日米決戦を想定した「世界最終戦争論」を樹立する。彼は、『世界最終戦争論』において、「最近ノ欧州ノ戦争ハ欧州所民族ノ決勝戦ナリ 『世界大戦』ト称スルハ当タラス 欧州大戦後西洋文明ノ中心ハ米国ニ移ル 次テ来ルヘキ戦争ハ日米ヲ中心トスルモノニシテ真ノ世界大戦人類最後ノ大戦争ナルヘシ」と書いている。その第一段階として、満蒙領有論を唱え、満州事変を指導し、日本と満州国を一体とした総力戦体制の確立に力を注いだが、一九三七年、盧溝橋事件が起こると、東条英機と対立する。構想実現のためには中国との戦争は回避すべきだと戦争不拡大を主張したのだ。日清戦争当時とは状況が変わっている今、日中戦争を始めれば、日本は破れ、台湾も朝鮮半島も失うことになると予測していた彼は参謀本部長に左遷され、孤立を深める。その後、西安事件をきっかけに、中国民族運動との連帯を通しての和平の方策として、「東亜連盟」を提唱し、四一年、第一六師団長予備液になってからは、この東亜連盟運動に専念した。敗戦後は、全面的武力放棄を唱え、故郷に帰り、日蓮宗信者として、開拓生活を送った石原完爾からすれば、あの事実否認者たちはあまりに傲慢すぎる。

 そもそも橘孝三郎は、一九三二年に出版した『日本愛国革新本義』の中で、次のような農民の対話を紹介している。

「どうせな、ついでに早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに」

「ほんとにそうだ。そうすりゃ一景気来るかもしれないからな、ところでどうだい、こんなありさまで勝てると思うかよ。−−戦というものは腹がへってはかなわないぞ」

「うむ、そりゃそうだ。だが、どうせまけたって構ったものじゃねえ、一戦争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金をひったくる、まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかもしれんぞ」

 農本主義者の橘は農民のこうした状況に危機感を覚えて、「愛国革新」を唱えるようになった。さらに、小林秀雄も、同じころ、『杭州より南京』の中で、「上海に来る船で、大阪のポンプ屋と同室し、それがこのどさくさを利用せんとあきまへん、と言っていたが、虹口の街にはそういうのが充満している」と書いている。戦後日本を批判するために戦前に回帰するものがいるが、戦前の日本人の心性も大して変わらないのだ。To vme.

 

Is it worth it?

A new winter coat and shoes for the wife

And a bicycle on the boys birthday

Its just a rumour that was spread around town

By women and children

Son well be sbipbuildiing.

 

Well, I ask you,

The boy said, Dad, theyre going to take me to task.

But Ill be back by Christmas

Its just rumour that was spread around town

Somebody said that someone got filled in

For saying that people get killed in

The result of their shipbuilding.

 

With all the will in the world

Diving for dear life

When we could be diving for pearls.

 

Its just rumour that was spread around town

A telegram or a picture postcard

Within weeks theyll be re-opening the shipyard

And notifying the next of kin

Once again

Its all were skilled in

Well be shipbuilding.

 

With all the will in the world

Diving for dear life

When we could be diving for pearls.

(Robert Wyatt Shipbuilding)

 

 従って、われわれが経験的所産として世界と後世に誇れる文化は、ただ一つ、次に示す平和憲法、すなわち日本国憲法第九条だけである。すべての文化は翻訳から生ずる。

   第二章 戦争の放棄

第九条 【戦争の放棄、軍縮及び交戦権の否認】 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

A 前項の目的を達成するため、陸会空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

  CHAPTER U. RENUNCIATION OF WAR

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

 憲法は、言うまでもなく、自明の法的原理ではない。英国には、周知の通り、一つにまとまった成文憲法はない。英国の法体系は、マグナ・カルタ以来の法令や判例、慣習によって構成されている。だからと言って、英国人が、日本人に比べて、生活に著しく支障をきたしている、もしくは法意識が低いということはない。また、シティを陣取る外国資本から日本より活動しにくいという声は聞こえてこない。憲法概念は、歴史的・原理的に、近代憲法から現代憲法へと変化し、その姿も各国によって異なっている。現行の成文憲法の中で最古のは、一七八七年に起草、翌年発行された合衆国憲法である。最初は前文と本文七条のシンプルな構成だったが、奴隷解放や公民権運動などを通じて、さらに二十七条ほど補正され、現在に至るという近代と現代が連続している稀な例である。アメリカは、決して、歴史の浅い新しい国ではない。この観点から見れば、むしろ、最も古い歴史のある国なのだ。近代憲法は近代国家とともに発展した。近代国家は、十八世紀後半から始まった産業革命を背景として急速に国力をつけていく英国を乗り越えるために、英国との経済的な遅れを政治的変革によって取り戻すために、大陸諸国で選択され、その後、日本を含めた世界中に広まった。近代国家に支配された植民地も、二十世紀に入ると、同じ国家体制を選んで独立し、いわゆる社会主義体制にしても、実際には、ビスマルク流の近代国家のバリエーションだった。「国家の『強さ』は、国家を担う人々の『弱さ』の証拠である」(ルドルフ・シュタイナー『われわれが必要としているもの』)。これを最も理解しているのは、憲法に明記して常備軍を放棄し続けているコスタリカの人々だろう。彼らは、世界史において、最も称賛される人々である。日本人はその二枚舌を恥じるべきだ。世界の歴史的流れはコスタリカの示す方向に向わなければならない。二十一世紀はコスタリカの世紀になるだろう。近代国家は、議会を招集、憲法を制定した上で、公教育と常備軍を通じて国民を生産して、自らを聴覚的には国歌、視覚的には国旗によってとりあえず実体化し、特定の言語を公用語化して思考を規制する。第二次大戦後、近代憲法の理念を押し進め、「国民」ではなく、「個人」の尊厳を実質的に確保するという理念の現代憲法が求められるようになったが、近代国家の諸問題に対応するには、依然として国内法だったため、不十分だった。今世紀、特に後半の戦争は、前世紀と違い、国家間戦争ではなく、内戦が中心である。と言うのも、近代国家形成過程には内戦と少数派(場合によっては多数派)への抑圧がついてまわるからである。近代日本では、前者は戌辰戦争と西南戦争、後者はアイヌ抑圧が相当する。内戦と見なされていない印パや中東の場合も、実は、近代国家の概念が生み出した紛争である。しかも、国家主権によって人道に反する犯罪が助長され、内戦が泥沼化している。国連と言えども、近代国家の連合体であり、内戦には決定的な方策を示すことはできていない。そこで、徐々に、世界的流れは国際法に対する国内法の比重を軽くし、国内法の領域とされてきた人権保証の国際的保証、国家主権の制限や国際機構への主権委譲といった国際主義的な法概念の創出し、保守化したり、利害に縛られやすい議会ではなく、司法が大胆にそれを示す方向に向かっている。戦争放棄を掲げた九条はポスト近代国家を見すえており、世界に提示できる原理である。最初に受容した欧州が近代国家を放棄する傾向にあるように、グローバル化していく二十一世紀には、ポスト現代憲法の体系が登場することは間違いないだろう。

 「そのような和解の第一歩は、常に、物事の始まりにある調和を素朴に信じることを拒絶することにある」(ポール・ド・マン『アルベール・カミュの仮面』)。文化は、本来、伝統として継承すべきものではなく、流通させるものである。ところが、日本人はそれを逆に思っている。戦後民主主義には矛盾があるが、だからと言って、戦前の思考を対置するのは不毛である。明治憲法が自主的であり、平和憲法がそうではないというのは事実誤認である。明治憲法は不平等条約の改変を目的につくられたもので、「皮相上滑り」(漱石『現代日本の開化』)にすぎない。日本人は、軽蔑すべきことに、現状追認を現実主義と呼んでいる。なぜなら、日本人はあまりに「皮相上滑り」であり、根源的ではないからだ。そんなものよりも、われわれは、黒人の歌手にして俳優のポール・ロブソンの『ここに私は立つ』における「平和−−何よりも大切なものである。平和が保証されれば、すべての国民、すべての人種が、花のように美しく栄えるであろう」という言葉のほうに根源的批評性を見る。ロブソンは、一九四九年、パリの世界平和会議での演説により、非米活動委員会の喚問を受け、翌年、国務省が彼の旅券を無効としたのに対し、八年に渡る法廷闘争にのぞみ、自由を勝ちとっている。ほとんどの日本人はつねに独創性と原初性を混同する。独創性は一切の交流を遮断して、無から新たな何ものかを創造するものではない。原初性志向のために、日本の文化はいつも輸入過多か稚拙な自前のものによって脅かされるのである。日本人に必要なのは原初性という受動的ニヒリズム、無への意志ではなく、独創性である。作品はほかの諸作品との交流によって生まれ、独創性はこの交流の創造だ。「サウンドは、それを出そうという積極的な行動があって、初めて意味をなすものだ。サウンドそのものよりも人間にかかわってくるわけだね。僕たちが作ったり、演奏したりしている音楽は、ほとんどが、僕たちがこれまで耳にしてきたものの再生物だが、それには違った時間やメロディーを施してあるんだなということに、僕は近頃ますます気がついてきている」(オーネット・コールマン)。独創は模倣の徹底化・極限化であって、能動的ニヒリズム、模倣への積極的な意志である。真のほんものも偽のにせものも存在しない。実在するのはただ偽のほんものと真のにせものだけである。日本人は真のにせものではなく、偽のほんものを選ぼうとする。平和憲法は世界宗教であり、これは共同体を否定する。憲法第九条は偶像崇拝の禁止、神、すなわちこの条文を畏れよ、他者を愛せよと語っている。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(『マタイによる福音書』二二章三七ー四〇節)。軍備の所有は唯一神教において禁止されている偶像崇拝である。「世のならわしがきびしくもたちきったものを、あなたの魔力はふたたび結びつける」(フリードリヒ・シラー『歓喜』)。日本人はつねに契約をないがしろにするが、憲法第九条は唯一神教的な契約であり、日本人にこれを変えることは「永久に」許されず、ただ従わねばならない。日本において、マルクス主義と平和憲法だけが唯一神教として機能してきた。Миру─мир!外交と安全保障が国家の独占事項だった時代は終わった。国家に代わる政治・経済体制が必要なのだ。

 フロイトは、『人間モーゼと一神教』において、ユダヤ人と神の関係について次のように書いている。

 さらにもっと奇異の念を抱かせるのは、ある神が唐突にある民族を《選んで》、その民族が自分の民であり、自分がその民族の神だと宣言するなどという想像である。こうしたことは、人類の宗教の歴史における唯一の例だと信ずる。ふつうは、神と民はたがいにわかちがたく結びついており、彼らははじめから一つのものである。一つの民族が別の神をうけ入れるということは往々にして耳にするけれども、神が別の民を探しだすというのは聞いたことがない。われわれはモーゼとユダヤの民との関係を思いおこすならば、おそらくこの一回かぎりの出来事の理解に接近することになるであろう。モーゼはユダヤ人のもとへ降りてきた、そしてこれを自らの民とした。つまり、彼らは彼によって《選ばれた民》なのである。

 日本人は、この意味で、「選ばれた民」である。敗北者だけが「選ばれ」ることができる。なぜ敗北したのかではなく、敗北に直面したとき、いかにふるまったかこそが大切なのだ。敗北は屈服ではないのである。敗北を敗北と認めることは恥ではない。敗北を敗北と認めない見苦しさは屈服の証なのだ。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(『マタイによる福音書』二二章一四節)。平和憲法は、本来、西洋のものであった。しかし、それは西洋では実現されたこともないつねに敗北してきた理想である。だが、理想であるかぎり、決して消滅することはない。われわれは理想を反復する。反復は、敗北の中で、復活する。平和憲法は日本人のアイデンティティを奪うが、知的・精神的解放を与える。平和憲法のために「選ばれた民」なのだ。それは「非ユダヤ的ユダヤ人」である。歴史は敗北において生きられる。平和憲法は日本人が「非ユダヤ的ユダヤ人」として生きる条件である。「国家」という概念はもう終わったのだ。「もしわれわれが戦争なしですますことができるとしたら、それは結構なことだ。私は武装せる平和のためにヨーロッパが毎年費やしている一二〇億という大金をもっと有効に使うすべを知っているのだが。生理学に敬意を表するには野戦病院によらなくてももっと別なやり方がある。……簡単にじょうずに、しかも非常にじょうずに言えば、古き神がかたづけられてしまって以来、私には世界を統治する用意がある……」(ニーチェ『この人を見よ』ボーダッハ編)。

 われわれは第九条を神と呼んだ。この条文は超越者ではなく、ただ内面化できないだけなのであり、日本人にとって、他者なのである。「人間は人間からは語ることを学び、神々からは黙することを学ぶ」(プルタルコス『モラリア』)。憲法そのものは絶対的なのではない。第九条は相対的な他者であり、その関係が絶対的なのである。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神とともにあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(『ヨハネによる福音書』一章一−五節)。これは、キリスト教独自のものではなく、すでにズルワーン教にあり、後のゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』にも見られる記述である。第九条は共同体の内側から発せられたものではなく、明らかに、日本人にとって、内なる異者ではない。この言葉は共同体と共同体の間にある他者の言葉なのである。自主憲法はその憲法の下での自己の絶対化を目的とするのに対して、平和憲法は、必ずしも、共同体の利益を自己絶対化することはないのだ。「私は知っています。なにゆえ私が無力であるかということを」(『アヴェスタ』)。

 本土の人よりも、一切の武器を持たず、次の『テインサグーヌ』という子守歌を歌う沖縄の人のほうがそれをよく知っている。

テインサグーヌ ハーナヤ(ホウセンカの花は)

チミサキーニ スーミテ(手をあかく染める)

ウヤノ ユングトウヤ(親のことばは)

チムニ スミリ(こころを染める)

ユラ ハラス フニ(夜航く船は)

ニヌア ミアティ(北斗星がたより)

ワンナチュル ウヤヤ(私を生んでくれた親は)

ワンドウ ミアティ(私が目あてだ)

 外部からの強制による信仰は「アブラハムの宗教」、すなわち世界宗教に共通して見られる特徴であり、六一〇年、ラマダーン月のある夜、ヒラー山の洞窟の中にいたイスラームの偉大な預言者ムハンマドは後に「威力の夜」ヒ呼ばれる体験をするのだが、それをイブン・イスハークの『神の信徒の生涯』は次のように伝えている。

 或る晩、わし(ムハンマド)がうとうと睡んでいると、突然天使ガブリエルが布衣を手にして現われて、「読誦せよ!」と命じた。「私には読めません」とわしが答えると天使はいきなり手にした布衣をすっぽりわしにかぶせて押えつけたので、わしはもう息が窒って死ぬかと思うほどだった。しかし天使はわしを放して、また「読誦せよ!」と命じた。−−預言者はそれでもまだためらっていた。天使は預言者を再びさっきと同じ酷い目に合わせた。ついにさすがのムハンマドも「何を読誦いたすのでございましょうか」と訊ねた。すると天使はそれに答えて、

 「読誦せよ、創造し給える汝の主の御名において。

 主は人間を一滴の凝血より創造し給えり。

 読誦せよ、げに汝の主はこよなく仁慈のこころ厚くして

 筆によりて(もの書くすべを)教え給えり。

 人間に、未知のことどもを教え給えり。

 人間に教えてもってその蒙を解き給えり。」

と言った。−−わしははっと目を覚ました。しかし天使の言葉はまるでわしの心にくっきり書き付けでもしたようにそのまま残っていた。わしは洞窟の外へ出た。そしてまだ山上にいるうちにわしは「おおムハンマドよ、汝は神の信徒なり。われは天使ガブリエルなり」という声を聞いた。目を上げて見ると、まさしくガブリエルが人間の姿をして、両脚を汲んだ形で天涯のあたりにありありと顕れていた。わしの目はその姿に吸い着けられたようになって、足は前にも後にも動かなくなってしまった。やっと視線をそらしたが、結局どっちを向いても地平線上に依然として天使の姿が見えた。−−しかしついに幻は消え、ムハンマドは家族のもとに帰った。

 ムハンマドの姿勢は受動的であり、彼の自発的意志は強制がなくなった後から発揮されるのである。宗教に限らず、物事を強いられ、抗った上で、受容したときのほうが、自主的に選択したものよりも、それを厳しく自己において確立する。自主的に選んだ場合、それを捨てても、あのときの自分はどうかしていたのだと思って納得できるが、強制された場合には、そうはいかない。assalam alaikum.mujhe dard hai. ji han.

 アイザック・ドイッチャーは、『非ユダヤ的ユダヤ人』において、「楽天主義」は「普遍的な人類の解放」と関係していると次のように記している。

 最後にスピノザからフロイトに至るまで、かれらはすべて究極的な人間のつながりを確信していた。それはかれらのユダヤ社会に対する態度の中にもみられる。われわれは今、人間性を信じたこれらの人々を、血にまみれた現代の霧を通して回想するのである。その霧はガス室(アウシュヴィッツ等の処刑の部屋)の煙である。どんな風が吹こうともその煙をわれわれの視界から追いはらうことはできない。これらの「非ユダヤ的ユダヤ人たち」は本性楽天家であった。そしてその楽天主義は今ではもうわれわれの手のとどかない高みに位している。

 私がその遺産をいま論じている偉大な革命家たちのほとんどは、その時代ばかりでなく、われわれの時代の究極的な解決を民族国家の中には見ておらず、インターナショナルな社会の中に発見しようとした。ユダヤ人であったかれらがこの思想の先駆になったのは当然であろう。なぜならすべてユダヤ、非ユダヤの伝統主義や民族主義を越えて自由になったユダヤ人ほど、平等な人類の国家を越えた社会を説く資格のある者は外にないからである。

 だから私はユダヤ人も他の民族とともに、「一民族のための国家」などというものが究極的には妥当性を欠いたものであることを自覚し−−あるいはもう一度再認識して−−、かつてユダヤ的なるものを超越したユダヤ系の天才たちが残した倫理的政治的遺産にたちかえることをのぞんで止まない。それは普遍的な人類の解放というメッセージに他ならない。

 この「インターナショナル」は、現在では、「トランスナショナル」と言い換えるべきだろう。別に「ユダヤ的」という言葉を使わなければならないわけではない。フロイトは、『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』の中で、「ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです」と言っている。「非ユダヤ的ユダヤ人」は現実のユダヤ人とも違うし、イスラエルという「民族国家」として実現している共同体の構成員でもない。それは国籍や宗教の問題ではないのだ。ドジャースの大エース、サンデー・コーファックスはユダヤ系の英雄になったが、偉大な大リーガーとして彼ら以外からも圧倒的な人気を獲得していた。また、たボブ・ディランはポップ・ミュージックに決定的な影響を与え、生きながらにして、「ディラノロジー」と呼ばれる領域まで存在するほどだ。そして、ヘドバとダビデの『ナオミの夢』は日本でのみヒットしている。「非ユダヤ的ユダヤ人」はユダヤ人に限定されはしないのである。「ユダヤ人のアイデンティティとは、いかなるアイデンティティをも求めぬということのアイデンティティである」(フロイト)。湛山は「時代の究極的な解決」を「民族国家」に見ていないし、日本の「伝統主義」や「民族主義」から「自由」になっている。彼は「平等な人類の国家を越えた社会を説く資格のある者」、すなわち「非ユダヤ的ユダヤ人」である。livuriut!

 預言者イザヤは、『イザヤ書』一〇章五ー六節において、次のようなヤーヴェの言葉を伝えている。

災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。

神を無視する国に向かって

  わたしはそれを遣わし

わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。

「戦利品を取り、略奪品を取れ

野の土のように彼を踏みにじれ」と。

 イザヤがイスラエルを滅ぼしたアッシリア軍を神の兵隊と人々に説いたとき、ユダヤの民族神にすぎなかったヤーヴェは、ほかの民族の軍隊をも動かす世界最高にして唯一の神になった。かくしてユダヤ教は世界宗教への道を歩み出すことになる。

 湛山は、このイザヤのように、戦時中、日本人を見ていた。われわれも、日本的なるものを「超越した」、「手のとどかない高みに位している」湛山が残した「遺産」に「たちかえること」を忘れず、「普遍的な人類の解放」目指す必要かある。そう、今だけでなく将来に向けても、楽天的に、われわれは遺産受けることを、そして遺産受けるものを待っている。「百年の齢は目出度も難有い。然しちと退屈じゃ。楽も多かろうが憂も長かろう。水臭い麦酒を日毎に浴びるより、舌を焼く酒精を半滴味わう方が手間がかからぬ。百年を十で割り、十年を百で割って、剰すところ半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享けたと同じ事じゃ」(漱石『幻影の盾』)。

 これまで日本人が賞賛されてしかるべき数少ないことは良識ある人々が国旗や国旗を拒絶してきた点である。日の丸や君が代を国のシンボルとしなければならないのは近代国家の概念が与えられているもので、別に日本固有のものではない。ところが、それを護ろうとする保守派ほど日本では攻撃的である。護るという言葉を口にするものは、何かを護るために相手を攻めることを平気でするように、つねに自己欺瞞に陥っている。その欺瞞の中で最も護られてきたのは正義だろう。しかし、正義は暴力に利用されてきたにすぎなかった。暴力は自分自身だけで正当化=根拠づけすることができないので、正義という外部を必要とする。暴力の内部は、官僚制と同様、空っぽである。なるほど正義は、カントが指摘した通り、物自体だ。戦争遂行者は外と内を区別する。味方は内であり、敵は外である。ジョン・レノンの『イマジン』は、その意味で、正しい。あれは反戦ではない。非戦である。従って、戦争は、究極的には、物量戦でも、情報戦でもなく、心理戦である。近代国家の正規軍は、ナポレオンがスペインのゲリラに敗北したように、スペイン語で「小さな戦争」を意味するguerrilla に勝つことはできない。ゲリラは心理に訴える。大きな戦争=大きな哲学、すなわちヘーゲルの時代は終わった。心理戦である以上、後ろめたさがあり、ルサンチマンとカタルシスが人々の原理になる。だが、後ろめたさを晴らすべきではない。それを護ったほうがよい。護るは後ろめたさの中、慎ましく生きる姿勢である。護ることをあくまで護るという姿勢によってしなければならない。それは沈黙することである。攻めようと思えば、致命的なダメージを与えるだけの力を持ちながら、護ることに終始する凄味が沈黙にはある。護ることは憲法九条においてしかありえない。原罪を持ち出すまでもなく、人には何らかの後ろめたさがある。「後ろめたさなどない!」と放言したり、「みんなそうなんだから、後ろめたくて何が悪い!」と開き直るのは、後ろめたさに対峙することを避けているだけだ。われわれは卑怯者と軽蔑しよう。後ろめたいので、他人が頼りないから、自分に頼るほかない。これは平和の一つの原点である。「力強いとは、相手を倒すことではない。それは、怒って当然というときに心を自制する力を持っているということである」(ムハンマド『ハディース』)。

 湛山は、『湛山座談』において、将来について次のように述べている。

 僕は民主主義は好きで、加わるけれども、どうも疑問を抱いている。果して民主政治で人間ができるものかどうか。

 (略)いまは民主主義に対して非常に疑問を持っている。民主主義はいったいどうなっていくかということ。どうも、もう少し考えないと……。民主主義というものが、実際安心して将来を託せるようなものであるならば、それが実現したといって喜ぶべきだけれども、どうもそれに対してすぐ疑問を持つ。そういう点手は満足できない。

 たとえば、経済界における自由主義、統制反対というようなことについて、やはり単純な自由主義と新自由主義といったものをどう考えるかがむずかしい。自由主義は自由主義として昔のレッセ・フェールではいかぬと思った。いまでもそうです。それで、片一方でレーニンの共産主義と自由主義と一致しなければならぬということをいっているのは、そのためですね。けれども、それじゃ、どういうことになるのかといえば、的確に選び出せといわれても、できぬですね。それは、これから考えることで。

 楽観的な彼には珍しく悲観的なヴィジョンを提示しているが、最後はやはり楽天的になっている。この楽天性がわれわれに示唆するものははるかに大きいのである。「考えること」に希望を抱いている湛山は、ただの反動志賀直哉のごとく、「考えてどうにでもなることではない」と諦めて開きなおるのとはわけが違う。われわれは、未来に対して考えるとき、悲観的にならざるを得ない。われわれの見たり、聞いたりするニュースのほとんどは暗くさせてしまう事件や出来事ばかりである。おまえたちは井伏鱒二の山椒魚のように生きているのだとショーペンハウアーの冷笑が聞こえてきそうだ。資本主義は将来への先延ばしを前提に現在を規定している。経済発展は、この先送りによって、環境や福祉問題において、危機を迎える可能性が高い。経済体制が恐慌によって破綻するが、環境の危機は、経済恐慌とは比べものにならないほど、深刻なのである。だからこそ、われわれは楽天的な姿勢をとり、「権威、伝統、学説、人種、派閥、階級及び先入見等の一切の束縛から離脱し、物事を自由に考え」(『自由思想協会趣旨書』)、可能性を探し、創意工夫を尽くす必要があるのだ。この楽観性がわれわれには苦しく追いつめられた状況にあるときの自由なのである。自由主義とは楽天的な生の生成過程にほかならない。Sawtdi.

 楽天的であるには強烈な意志を必要とする。石橋湛山は楽天的な強い意志の持ち主だった。楽観性は自らの責任を明確に背負うことでもある。しかし、それが自由なのだ。「私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ」(安吾『恋愛論』)。修行などと称する宗教的行為は意志の強さを試すどころかそれに欠け、実は、まったく弱者のわかりきった「無難で、精神の大きな格闘が不要な」ものをごまかしているだけなのである。弱者の生きる原理は気分であり、それはいつも悲観的で、自己嫌悪と自己憐憫な戯れにすぎない。気分は「幻想」を生み出し、予言を求める。弱者は気で病む人間なのである。近代日本において、唯一政治家であり理論家である湛山は「弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ」のだ。湛山は「幻想」を批判し続け、将来の「予想」をしても、予言は決してしなかった。と言うのも、「予想」が楽観的であるのに対して、予言は悲観的だからなのだ。一方、つねに業務に真剣にとりくんでいるとへりくだった口調で国会答弁する官僚は、責任を放棄できるから、いつでも悲観的である。彼らに自由はない。

 将来と言えば、近代国家は、福祉・安全保障政策などあらゆる点で、すでに破綻している。それに代わる新たな概念を創出する必要がある。近代国家の矛盾・改革を指摘する時期はもう終わっている。にもかかわらず、権力者を含め多くの人々は近代国家にしがみついている。それはあまりに非現実的だ。例えば、環境問題は一国家だけではどうにもならない。ブロック化を推進している地域もあるけれども、それは近代国家の延長にすぎない。発展途上国が近代化しようとすると、先進国で経験したはずの矛盾はまったく改善されず、同じことを繰り返す。これは為政者が無能だからではないだろう。近代国家は十九世紀的状況を再現=再生産し続ける。十九世紀は、二十世紀に比べて、大きい時代なのだ。近代国家を超える概念を提示できるのは憲法九条である。それは十九世紀に対する二十世紀のゲリラ的抵抗なのだ。そのため、憲法九条を世界中に輸出しなければならない。「イギリスでは自分のことを笑えることが大変重要で、逆に自分のことを笑えない奴は野暮という雰囲気がある。英語でself-deprecating(セルフ・デプレケイティング)という、ぼくはそんな感覚を日本語で表現する時は"自嘲的ユーモア"と言っているが、この"嘲る"という感じが持つニュアンスがよくないとの指摘を受けたことがある。たしかにdeprecateという単語は、他人に対してなら日本語と同じ意味になるが、対象が自分自身となるとむしろ肯定的な印象を与える」(ピーター・バラカン『ぼくが愛するロック名盤240)

 ノルウェーの反ナチス非暴力抵抗運動の指導者ディデリッヒ・ルンドは、L・S・アプシーの『平和を造り出す力』によると、公開性の力について次のように回想している。

 秘密主義は大胆率直にあからさまにものを言うことや、明白な真理に最後まで固執するという仕方に比べれば、力にはならなかった。このオープンな精神によって抵抗した人々は皆、険しい困難な事態の中でも、静かな、幸福な、ある不思議な感情で満たされていた。われわれは何よりも、能率のよさ、智慧、勇気、そして自己犠牲の精神を備えていることが必要である。もし、われわれがこれらの特質をある程度、持っているならば、非暴力抵抗は正義と愛を求めての闘いに、確実性の高い、かつ悦びに満ちた闘い方の知識を身につけさせてくれる。また、われわれの闘いこそが永遠の勝利へと導く唯一の闘いであると悟るようになるであろう。

 こういうことに気がついていない官僚の仕事内容は、既得権益を守るほかには、説得できる議員を味方にとりこみ、無害な議員を無視すること、意地悪で鋭く決定的な質問を放つ警戒を必要とする議員との経費持ちの懇談、企業の担当者や地方自治体の職員との飲食代と往復の交通費などの一般的常識の範囲内の接待費の明細(彼らに言わせれば、接待によってかかった通風や糖尿病、脂肪肝などの生活習慣病の治療費を請求をしていないのだから、これは常識的なのである)、馴染みのクラブのホステスとの浮気の場所まで書きたてるマスコミ対策なのである。「既得権益の力は、思想がしだいに浸透していくありさまにくらべると甚だしく誇張されている」(ケインズ)。彼らの子供は自分の親を情けないと嘆いているに違いない。「救救孩子」(魯迅『狂人日記』)。こういう阿Qのような俗物は、若者を社会的常識を知らない連中と批判するが、むしろ、若い彼らは、すべてを評価することなどできるわけもないが、子供っぽくてなかなか頼もしいとも思えるが、俗物の言う社会のルールは、多くの場合、通俗を意味しているにすぎず、われわれはそれに辟易してしまう。日本人という言葉は俗物の代名詞である。一九七三年、第三次国連海洋法会議において、タンザニア代表は日本人について、「彼らは自国の近海を魚がすめないまでに汚しておいて、他国の海に魚を獲りにやってくる。彼らは自国の利益しか考えない民族である」と発言したが、日本人はまさにすべての領域でそうなのだ。選挙制度は他者を政治に導入することを目的とする。セルバンテスの『タガンソの村長選挙』さながらの光景が繰り広げられている日本では、いくら選挙制度を改定したところで、腐敗した政治が活性化することはない。それには人の頻繁な移動が不可欠だからである。移動は人を他者にする。亡命のないところに政治意識は育たない。醜い政治家の功罪とやらを手間隙かけて論じることなど無駄遣い以外の何ものでもない状況の中、もしわれわれが、日本にはくだらない政治家しかいないじゃないかと尋ねられたなら、いや、石橋湛山がいたよ、と答えるだろう。「だがあなたは 腹黒い役人の手中にある それを思うと わたしの胸はつぶれる」(マリーナ・ツヴェターエフ『愛のしるし』)という心配は湛山に関しては御無用だ。おそらく多くの理解力に欠ける政治家たちの存在意義は、あまりに素朴で人前では恥ずかしくてとても公言できないようなことを、口にしてくれることである。なぜならば、日本人は完璧主義を考え、いつも失敗に怯えているのだから。だが、湛山は、危機的場面に直面しても、思いきりよく、挑戦的なのである。湛山は講演旅行にいくのにも、演劇を観にいくのにも、いつも夫人と同伴することを好んだ。このような湛山はリーダーではない。いや、湛山はリーダーの不要を唱えたのである。「議長で会議を仕切ったこともあるが、なにかの結論へ向けてまとめようと無理するのが、一番よくない。リーダーシップなんていらない。そのかわり、まとまった結論というのは、当面の指針になっても、それだけが正しいわけではない。もともとが、いくつかのルートがあって、そのどれもがいくらかは正しいからこそ議論になっているのであって、結論が出たから急に、正しいのはそれ一つということになるはずはない。今後のことを考えれば、まとまった結論で正しいと安心するより、しりぞけられた意見のほうが役に立つ」(森毅『うっとおしいけど楽しい』)。湛山が首相を短期間で辞任したのは、リーダーの登場を待望し、それに頼ることなく、自分自身として生きることを人々に求めたからなのだ。「いま、わたしがあなたがたに求めことは、わたしを捨て、あなたがた自身を見いだせ、ということだ。そしてぁなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。まことに、わが兄弟たちよ、そのときはわたしはいまとは違った眼でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)。湛山は馬鹿げたリーダー論を軽蔑する。湛山を理想のリーダーとすることは誤謬である。リーダーという個人への偶像崇拝は湛山には似つかわしくない。「彼が毀とうと思う不条理、正すべき不正、改むべき非理、除くべき障害、果たさねばならぬ負債が山積しているのであってみれば、己が躊躇によって世の中に損失をこうむらせているのだという考えにせきたてられて、彼はもはやこれ以上己が計画を実行にうつすことを待とうとは考えなかった」(ミゲル・デ・セルバンテス・サベドラ『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)。湛山は、一九五七年一月に札幌で、「国民諸君、私は諸君を楽にすることはできない。もう一汗かいてもらわねばならない。湛山の政治に安楽を期待してもらっては困る」、と演説している。リーダー待望など、なるべく少数のものに権力を委託すれば、何かあったとき、自らの身は安全だという御都合主義にすぎない。「雑木山には、さまざまの木が茂っている。そのあるものは、この雑木山にとって邪魔に思えることもある。しかしそれは、そこへ入る人間からの思惑で、やはり全体としての自然の調和があって、雑木山はあるのだろう。そうだから、さまざまの花が咲き、さまざまの虫が来る。人間はそこを杉山にした。むだな木は刈りとられた。木は整然と植えられ、何年かの後に伐りとられて、人間に利益をもたらすだろう。目的を持ち、計画された世界だ。しかし、そこにはもはや、さまざまの花は咲かないし、さまざまの虫もいない」(森毅『ひとりで渡ればあぶなくない』)。(日本を含めた)ファシストたちは正義を求めることで悪をもたらし、英雄であることでファシストとなることをリーダー待望論者は忘れてしまっているのだ。ニヒリズムの徹底化が不十分である。マックス・ヴェーバー流の政治家はナチズムに対抗できなかった。われわれはリーダーを気軽に消費してきたおかげで、リーダーの値の相場は下がり続けた。俗物さを発揮してくれたので、政治家の値も官僚の値も下落し続けている。そのことを嘆く必要はない。リーダーに頼らないで、自分自身で考え、ボランティア活動も含めて、自分たちで生きたほうがよい。カール・レーヴィットは、『ヨーロッパのニヒリズム』の中で、ヨーロッパの自己批判の精神に対し、日本の「自愛」を比較して、論じた。軍国主義日本は、歴史上、最悪の政治体制だった。なぜなら、ファシスト・イタリアでは、イタリア人自身がムッソリーニ体制を崩壊に導き、ナチス・ドイツですら、ヒトラー暗殺計画が実行されたというのに、日本人のほとんどは抵抗運動をしなかったからである。日本人は後ろめたく生きなければならない。すべてがスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『ほんのうちわの出来事』の世界がまさにファミリー・アフェアだという日本には、批評精神が根本的に欠けている。「時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むる所は批評である」(石川啄木『時代閉塞の現状』)。今の日本には、何よりも、批評が必要なのだ。批評家は、あらゆる権力にとって、好ましからざる人物である。湛山は、例外的に、その批評精神を持っていた。この世は未来からの借り物だ。「Ecrasez l´infme! 」(ヴォルテール)。

 真白な百合が鼻の先で骨に徹える程匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花辯に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気が付いた。

(『夢十夜』)

 湛山は、一九五七年一月八日に東京において、首相就任の誓いを次のように演説している。

 民主政治というものは非常にむずかしいものであります。民主政治は往々にしてみなさんのこきげんを取る政治になる。国の将来のためにこういうことをやらなければならぬと思っても、多く人からあまり歓迎せられないことであると、ついこれを実行することをちゅうちょする。あるいはしてはならないことをするようになる。こういうことが今日民主政治が陥りつつある弊害である。これは日本だけではない、世界的にあまりごきげん取り政治になることが民主政治を滅ぼす原因になるであろうと心配する人が西欧諸国にもおる。わが日本においても同様でありまして、私は昨年はからずもわが党の総裁に選ばれまして、序で総理大臣に指名されたときに、最初に党で申しました言葉がこれであります。私は皆さんのごきげんを伺うことはしない、ずいぶん皆さんにいやがられることをするかもしれないから、そのつもりでいてもらいたいということを申しました。

 皆さんにおいては、理解のあるわが党員あるいはわが党に大体同情を持って下さる皆さんであるからよくわかると思います。私どもが四方八方のごきげん取りばかりしておったなら、これはほんとうに国のためにはなりませんし、ほんとうに国民の将来のためになりません。あるいはわれわれはその場合に誤るかもしれない。誤ったらどうか批判していただきたい。私どもは所信に向かって、ごきげん取りはしないつもりであります(拍手)。ごきげん取りをせずに、内においてもあるいは外に対してもわれわれの所信どおりに進んでいまいるつもりでありますから、どうかこの点について皆さんの特に御理解と御協力をお願いいたします(拍手)。

 湛山は、あの映画は好きだが、「若大将」のごとく、「僕のゆくところへついておいでよ」(『夜空の星』)と歌いかけているのではない。「戦争をやめろ!」と叫ぶ遊星仮面のほうがましなのに、若手政治家は若大将が非常に多く、うんざりさせられる。日本の政治家は、アメリゴ・ドゥミニのような輩が依然として多いにもかからず、ジャコモ・マッテオッティを見ならえとまでは言わないが、アヴェンティーノ派程度のことすらしないのだ。へたをすると、「Credre Obbedire Combattere」とスローガンを掲げて、『青春』を合唱しかねない。「人生はすりこぎだ」(左とん平『とん平のヘイ・ユー・ブルース』)。首相に就任し、ハッスルしすぎて、無理をおして全国遊説をしたため、風邪をひいて退陣するというどこか自分の食べたバナナの皮で滑ってしまうようなところが、われわれにとって、湛山に理解・協力したくなる部分なのだ。もしわれわれが、ある場面には、リーダーを認めるとすれば、こうした資質の持ち主であろう。それにしても、湛山がウィリアム・ヘンリー・ハリソン合衆国第九代大統領のようにならなくてよかった。リーダーは、一人で、何もかもができる必要はない。むしろ、人々が協力してあげたいと思える人こそがリーダーである。そして、人間はミスを犯すし、失敗もする。それを人々に納得させられるものがリーダーたる資格がある。「嘘をつくこと」を非難する人は数学を知らないと言っているにすぎない。そういう無内容な人にはクレタ島へ行くことをお勧めする。嘘をつかないとという姿勢を貫こうとするのは知的怠惰であるから、むしろ、われわれは嘘をうまくつけれているかどうかという点を問題にする。嘘をつかないことを基準にすると、匿名投票の意味がなくなる。人は正直でいるよりも、国会の証人喚問が明らかにしている通り、嘘をつくことによって連帯できるものだ。われわれは嘘に強くなる必要がある。政治家にだまされたと憤る前に、有権者が候補者をだますようにしなければならない。嘘もさじかげんだ。「タテマエの世界としては、これから、いろいろな立場になっていくかもしれない。それでも、自分の中にあるちょっとズッコケた部分を持っていれば、そのズッコケた部分で、だれとでも連帯できる」(森毅『まちがったっていいしゃないか』)。このドリフの『ズッコケちゃん』や川崎のぼるの『いなかっぺ大将』を彷彿させる「ズッコケ」という言葉の響きは決して古びていない。「ズッコケ」は蘇る。

 上役の「ごきげん取り」するよりも下づみを大切にする湛山は、『落第の効能』において、五年ですむ中学を七年かかって卒業していることについて、「それも病気とか何とかいう、やむをえぬ故障のためではなく、ただ、ぼんやりと、なまけていて、試験に落第したのであった」と言い、さらに次のようにふりかえっている。

 回想してみるに、私は、少年のころから、頭は悪くもなかったらしいが、はなはだノンキ者であった。二度も中学で落第して、平気でいたとは、今から考えても、何とノンキなことであったろうと思うのである。しかし、かようにノンキでいられた理由は、必ずしも私の生まれつきばかりではなかった。

 私の父は、後に身延山の住職をつとめ、今でも日蓮宗では、そのころを知る人の間に名を知られているものだが、若い折には至って短気で、やかましやであった。だから、もし私が、その父のもとにいたら、落第したが最後、おそらく学校をやめさせてしまうぐらいの厳罰を受けたに違いない。

 「短気」な住職と「ノンキ」な政治家という親子の組み合わせもかなり「ズッコケ」ているが、森毅の「民主主義とは、なまいきになることだ」という「非国民の思想」に同意するわれわれはこういう湛山とはいつでも「連帯」できる。湛山ほど「なまいき」な人もいなかったろう。だから、われわれは、日本でも、こんな「言」を主張し続けた人間がほんのわずかながらも、首相を就任していたのだという事実を楽観的に覚えておこう。石橋湛山がいたということはわれわれの励みなのであるから。「´Ο κοσμοσ σκηνη, ο βιοσ παροδοσ´ ηλθεσ, εδεσ, απηλθεσ.」(デモクリトス)。

 きみに知ってもらいたいことは、すべてわれわれの狂気は、胃袋がからっぽで、脳が空気だらけということに由来するんだと、おれは体験者としてそう思っているってことだ。元気を出すんだ! え、元気を! 逆境にあって気落ちしたら、健康を害し、死んでしまうことになるんだから。

(『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)

〈了〉

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